いろいろ徒然

◎国語辞典からの招待状。「矢筒」で2000字。

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国語辞典を適当に開き、そのページの最初の単語から連想する文章を2000字、という企画をやっています。とりあえず2000字は何も検索をせずに自力で書く。外付けハードディスクとして、記憶をパソコンに依存して幾年か。全ての記憶を忘れつつある。この企画では自前の記憶に頼って書いて、あやふやなところは後で答え合わせをする。

今回のテーマは「矢筒」。

現代日本人にとっては遠いテーマですね……。鎌倉~戦国期の人ならばまだしも。その頃でも、人口割合的に一番多い農民なんかは持ってはいなかったんだろうなあ。いや、境界争いが激しそうなこの時代、意外に弓矢は一般人にも身近な道具だったかもしれないけど。

矢筒:矢を入れておく筒。a quiver

 

「矢筒」で2000字。

矢筒は移動の時、矢を入れる道具。背負って使います。具体的なサイズは確信が持てないけれども、戦の時に馬を走らせつつ手探りで矢を取って弓を射なければならないのですから、それほどの重さ、大きさはないと思います。イメージでは直径15センチ程度、深さ80センチくらいの円筒型。矢は何本入れていたのでしょうか。20本くらい?

矢筒そのものを、何回かは見ているはずです。主に博物館で。だが、矢筒と言って思い浮かぶ個別物件が全くない。美術品としてあまり有名な物はないのではないしょうか……。最近は刀剣が人気だそうですが、矢筒はそこまでポピュラーじゃない。と思う。

岩手県江刺市に「えさし藤原の郷」というテーマパークがあります。奥州藤原氏を描いた大河ドラマ「炎立つ」のセットとして作られました。ドラマ撮影終了後、その後広い敷地にセットをそのまま残してテーマパークに。平安時代から戦国時代にかけてのドラマのロケに今でも時々使われます。

ここ、寝殿造りのセットがあるのがいいんですよねー。小規模だけれども。寝殿造りを見られる場所は日本広しといえども、ここくらいしかないのではないでしょうか。わたしが夢見る、源氏物語テーマパークがいつかどこかに出来ない限り。

はるか昔、そのえさし藤原の郷に行った時、当時の衣装の復元展示がありました。なかなかの力作だったことを覚えている。その中に矢筒もあったはずです。鉄砲伝来前の日本では弓矢が最強の飛び道具だったのですから、ないはずはない。

しかし矢筒自体のことは記憶にない……。印象的だったのはむしろ「矢」の方でした。特に矢羽根。あのおしりについている三角形というか平行四辺形というか、の羽のこと。たしか矢の軌道を安定させるために必要なものだったはず。

あれは鷲・鷹などの猛禽類の羽が使われるそうですね。なるほど。たしかに、美しいものである必要もあったでしょうし、構造をよく知らないけど大きさも必要でしょう。大きいということは強さもあっただろうし。

その矢羽根を、奥州藤原氏・平泉政権が北海道などのアイヌから物々交換で手に入れ、鎌倉や京都を始めとする消費地と中継貿易をしていたらしい。平泉は金色堂に象徴されるように、豊かさを誇っていました。その豊かさは砂金があったからだと言われていますが、考えられているよりも貿易に拠る部分も多いと思う。

現在の地図を見ると平泉は岩手県内陸部、一見、貿易の要素は見えません。しかし平泉のそばには川がある。北上川。北上川は古くから陸奥湾に――近世に川の流れがだいぶ替えられたので、当時は陸奥湾じゃなくて三陸海岸の方に注いでいたのかもしれませんが――通じた流通の大道でした。道が整備されていなかった平安時代末期、物資の流通は海、河などの水路を使った方が効率的だったはず。

鷲や鷹は本州にもいそうですし、それをわざわざそんな北方から得ていたのか不思議な気はします。ここは後で調べてみたいところ。なおアイヌからの交易品にはアザラシの皮もありました。これはいかにも北方との交易という感じですね。海産物もあったでしょうか。それこそ昆布とか。

本州側からアイヌへ渡ったものはなんだったのでしょう。布――はありそうですが、絹は高価すぎてアイヌ側の必要を満たしたとは思いにくい。麻もあるかもしれないけれど、寒いので北方の民にやはり必要があったかどうか。綿は暖かくて良かっただろうけど、この頃栽培されていた気がしない。もう少し時代が下がる気がします。この頃の布は苧麻――この苧麻がよくわからないけど、麻の一種、あるいは麻?

その他の南から北への交易品は全く思いつかない。贅沢品はそんなには……だと思うし。……あ、陶器、磁器はどうでしょう。南の方が各段に進んでいた品物のはず。刀剣類も南の方が進んでいたでしょうが、アイヌが武器をそれほど必要としたイメージがない。あとは、米?米こそは当時の蝦夷地では採れなかったでしょうが、アイヌの人が食べたでしょうか。アイヌの人々の主食は一体なんだったのか。

アイヌ民族の衣装なんかは時々見かけますね。ムックリという楽器のことも聞いたことがある。はっ!北方からの交易品として、多分鮭もあったんじゃないでしょうか!……アイヌについて、ほんの断片の知識しかない。まとまった形で見たり読んだりしたことはないかもしれません。

こないだTEAM NACSが北海道の白老?にあるアイヌ文化センター(のようなところ)を紹介しているテレビ番組を見ました。見て驚いたのですが、宇梶剛士がそこの名誉館長のような立場についているらしいです。彼にもアイヌ人の血が流れているんだとか。意外でした。なかなかしっかりした観光施設で、こういうところに行くとアイヌ文化がしっかりと見られそうです。

矢筒は、美しいものを探せば蒔絵などの工芸品的なものがありそうです。特にほぼ実用に使わなくなった、江戸時代中期以降のものにいいものがありそうな気がします。

 

答え合わせ。

世の中に流通している矢筒。

今の世の中で「矢筒」と検索すると、まず弓道用品が出て来るんですね。弓道人口って少ないイメージがあったので、弓道用品店がたくさんあったのに驚きました。

その次に多かったのは古美術としての(売買の対象になる)矢筒。数的には少なめ。

博物館・美術館で展示する矢筒もたくさんあるんだろうけど、作品名としては見つけられなかった。サイトに大々的に載せる派手な作品はあまりないということかもしれません。

弓道用品の矢筒と、昔実戦で使われていた矢筒と、美術工芸品として作られた矢筒を単純に比べていいものかどうか迷いますが、弓道用品の矢筒は90センチ~105センチの長さが一般的なようです。直径は意外と細く、矢は6本くらい入るもの。見た感じ10センチもなかった気がする。

精度が低い情報だけれども、実際の戦場で使われた矢がだいたい20本~30本らしい。現代の弓道用品の矢筒では6本くらいが多そう。だいぶ小さいのかな。しかし古美術品の矢筒はもっと細く、これでは3、4本しか入らないのではないか思う。大きさにけっこう幅があるものなんですかね。

ちなみに矢は消耗品なのに高価で、現在のお金で1本3000円前後したらしいです。戦になればそれを何百本も何千本も使うのだから恐ろしい。戦が終わった後に戦場から矢を回収したとか、諸葛孔明が(一説には孫権が)敵のそばに藁を積んだ船を近づけて射させて10万本の矢を回収したとか、そういう話も納得出来ます。むしろ再利用しないのがもったいない。

が、実際は一度使った矢は使いにくかったそうですね。微妙なバランスを必要とするものなのに、一度使った矢はほんの少し曲がったり、矢羽根の一部が欠けていたり、いろいろ変わってしまう。精度に不安があったので再利用の矢を使える場面は限られたでしょう。集団で雨のように射かける場合は使えただろうけど、一人一人を狙うような場合は難しい。

矢筒の名品は?

矢筒の名品はわたしは見つけられませんでした。多分、仙台市博物館辺りにも1つや2つ、収蔵品がありそうですが。

ちなみに矢筒の一種に箙(えびら)、靭(うつぼ)と呼ばれる矢入れがあり、こっちの方がデコラティブで名品がちょこちょこありそうです。しかし矢筒と箙と靭の違いよくわからないのであった……。

えさし藤原の郷。

現在形で書いたはいいが、まだあるかな?と不安になった。ちゃんと存在していました。

えさし藤原の郷

なかなか他では見ることのできない、平安中期から末期の館の雰囲気が味わえます。けっこう広いんですよね。多賀城政庁跡を模したエリアもあるのもいいところ。多賀城に復元建物は、ほんの小規模な築地塀以外は、ないですからね。歴史好きなら大変楽しめる場所だと思います。現代の歴史ドラマでも、ここでロケをしたんだろうなーというシーンが時々出て来る。

もし行く場合は、「炎立つ」を読んでからがおすすめ。

 


炎立つ 壱 北の埋み火 (講談社文庫)

 

全5巻。100年以上にわたるみちのくの歴史絵巻。高橋克彦は岩手県盛岡市在住の小説家で、ミステリー・伝奇・歴史物を書く人です。この作品は面白かった。東北の大地を駆け巡る、熱い男たちの話。フィクションですから、このまんま史実と信じるのは危ないが。

矢羽根の種類。

鷲や鷹以外に白鳥、雉、鴨、鶏、七面鳥の羽も使われるそうです。七面鳥が意外でした。でも七面鳥は昔の日本にはなかったはずですよね。今は弓道の矢で使われているとか。

矢羽根が、1本の羽を左右に2つに分けて使うというのは何となくわかっていたのですが、そうすることで右部分と左部分で回転方向が変わるというのは想像外でした……。複雑なものなんですね。なので材料として羽根が2本では矢が1本も出来上がらない。羽根3本で2本の矢。

アイヌと本州の交易品。

矢羽根にする猛禽類の羽根、アザラシの皮、鮭の他、鹿の皮や海産物なども来ていたようです。北海道の砂金が平泉へ来ていたのではないかと研究している研究者もいるらしい。現時点では否定的な調査結果が出ているようですが。

こちらから行っていたのは多分米と。刀も行っているかもしれない。刀は実用というより祭器的な扱いをされていた可能性があります。布も行っていたと思われますが、多分麻などが主。木綿はこの頃よりは時代がずっと下ってからしか流通しないようです。

なお、苧麻はカラムシだそうです。イラクサ科の多年生植物。一見雑草に見える草だけれども、麻などと並んで古代や中世には代表的な布の原料だったそう。歴史的には越後の国が一大名産地で、小千谷縮は苧麻で作られるんだとか。

近年、平泉で、アイヌ文化の擦文土器が発掘されたそうです。……あれ?擦文土器はアイヌ文化の前ですって?

あ。間違っていた。擦文文化→アイヌ文化と移り変わり、アイヌ文化は鎌倉時代になってからの話だそうですから、平泉の頃は「アイヌの人々との交易」とはいえないですか。「北方の人々との交易」が正しいようです。

そして北海道厚真町の遺跡から愛知県常滑産の大壺が出土している。平泉周辺で出土する常滑産の陶器と類似していることから、平泉との関連が研究されているらしいです。

厚真町は苫小牧から東へ、車で45分ほどいったところ。海からそれほど遠くはありません。その辺りに平泉ゆかりの物があるのは不思議ではない気がする。

ウポポイ(民族共生象徴空間)。

アイヌ文化センターなどとわたしは勝手な名前で呼んでみたが、TEAM NACSが行ったのは「ウポポイ」という施設だそうです。

ウポポイ

……うーん、そういわれてもよくわからないけれども。民族共生象徴空間と言われてもよくわからないけれども。

でもこの施設の中に、国立アイヌ民族博物館、国立民族共生公園、慰霊施設があるそうですからアイヌ文化センターといっても当たらずといえども遠からず。が、名前を見てどういう施設かよくわからないというのは、ネーミングとしては疑問ですね……。意味がわかれば興味も湧くけれども、意味がわからないのでは、膨大な情報量の中で立ち止まってそれ以上を調べてみようとは思わない。やっぱりわかるネーミングがいいと思う。

テレビ番組で見たところ、なかなか面白そうな施設でした。展示がきれいで工夫されていて、すごく見やすそう。舞台もあれば工房もあり、レストランでアイヌ料理も食べられます。湖に臨む風光明媚な場所。いいところ。

 

矢筒で2000字。

矢筒から矢羽根の話になり、アイヌまで話が転がりました。アイヌも面白そうではありますね。アイヌの叙事詩「ユーカラ」についても、いつか何か一冊くらいは読まないとと思っているのですが。金田一京助の本で何か読みやすいのを。……最初から読みやすいのを狙うあたりで、すでに不純。

 

 

 

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