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◎はっと息をのむ、黒と灰色の競演。長谷川等伯「松林図」。

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今はむかし、日本画にほとんど興味がなかった頃。
通りすがりにテレビの画面を見て、目を奪われました。

それが長谷川等伯「松林図」。

Hasegawa Tohaku - Pine Trees (Sh?rin-zu by?bu) - right hand screen.jpg
長谷川等伯 - Emuseum, パブリック・ドメイン, リンクによる

Hasegawa Tohaku - Pine Trees (Sh?rin-zu by?bu) - left hand screen.jpg
長谷川等伯 - Emuseum, パブリック・ドメイン, リンクによる

六曲一双の屏風で、上が右隻、下が左隻です。

記憶が定かではありませんが、多分NHKの「日曜美術館」だったと思います。
その番組を見ていたわけではなくて、たまたまテレビの前を通りかかっただけ。

この絵の何にそこまで惹かれたのでしょうか。

おそらく、その静けさに。

 

靄と松の響き合い。

白い背景に浮かび上がっている数本の松。
うっすらと見える影は実在なのでしょうか、それとも手前の松の「影」なのでしょうか。

一番濃くしっかりと描かれているのは松葉の部分ですが、わたしが一番この絵で惹かれるのは幹です。各隻の主役であるそれぞれの松、その幹の姿のよろしさ、柔らかさは一般的に千古不変の象徴とされる松というより儚げな風情を感じさせる。

硬い筆(藁筆とも言われています)、荒いタッチで描かれた松葉が強さも感じさせますが、等伯が描こうとしたのは松の力強さではなく、松の精のごときものではないか。

人に忘れられた海辺にはるか昔から佇む松の精。
これは深山の松であるという意見もあるようだけれども、海岸の風景としておきたいと思う。

 

この絵は、等伯の息子の久蔵が26歳の若さで亡くなった後、一、二年して描かれたものと言われています。
その悲しみが描かせた……という言い方をしたら安易ですが、この静けさ、淋しさには久蔵の死を経た後の等伯の心境があったと思います。

 

長谷川等伯の人生。

関ヶ原前後に活躍した絵師。現在の石川県七尾市出身です。七尾市がどこかというと、石川県の真ん中にある七尾湾に面したあたり。

当時の七尾は大名・畠山氏の庇護のもと、小京都のような賑わいを見せていたそうです。人が集まるところには金が集まり、金が集まるところには文化が生まれる。
等伯は七尾で仏画や肖像画を描いていました。

七尾時代の絵。

今、初めて七尾時代の絵を見ましたけれど、これは達者ですねえ……。

富山県高岡市 大法寺の「日蓮上人像」。

Nichiren by Hasegawa Tohaku (Daihoji Takaoka).jpg
Hasegawa T?haku - http://www.pref.toyama.jp/sections/3009/3007/digitalmuseum/toyamanokaiga/aduchi1.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

仏画・肖像画は全然知らないジャンルですが、ここまでかっちり描けたら、それは京都に行って腕試しをしたくなるかも……。

等伯は養父母の死に遭い、しがらみが少なくなったため思い切って妻子を連れて京都へ移住することにします。

30歳過ぎた頃らしいですから、かなりの冒険――と思ったのですが、その前からちょくちょく京都には行っていて、ある程度京都にも知人がいた様子。七尾で日蓮宗関係の仏画などを多く描いていた関係で、京都・日蓮宗の本法寺をまず頼ったようです。

 

縁の京都・本法寺には等伯の銅像があります。

本法寺には行ったことがあります。銅像がなぜこんなに見上げる姿勢なのか謎。

 

 

小さな展示室があって、あまり期待をしすぎなければいい感じです。長谷川等伯の作品としてはでっかい涅槃図の複製があります。

本阿弥光悦が作ったという庭があり。ここは蓮の季節に行くといいですよ。蓮が枯れてからだとちょっとわびしいので。

狩野派との競合。

七尾から京都へ来た等伯は、日蓮宗との結びつき、そして千利休の知遇を得たことでだんだん絵師として勢力を増していきます。京都には狩野派が幅を利かせていて、しかもその頃は狩野永徳が率いていたのですから、そこにねじ込むのには実力とともに相当な駆け引きもあったのではないでしょうか。

長谷川等伯「千利休像」。

Sen no Rikyu JPN.jpg
painted by 長谷川等伯, calligraphy by 春屋宗園 - http://www.omotesenke.com/image/04_p_01.jpg , Omotesenke Fushin'an Foundation, パブリック・ドメイン, リンクによる

狩野派と仕事の取り合いで争うこともあったようです。このあたりはフィクションで読んでみたいところですね。


等伯 上 (文春文庫)

これ面白そう。そのうち読もう。

長谷川等伯、もう一枚の名画。

「松林図」が長谷川等伯の代表作であることは間違いないと思いますが、もう一枚、記憶に残る絵があります。

京都・智積院「楓図」

Erable entoure d'herbes d'automne (detail) par Hasegawa T?haku.jpg
長谷川等伯 - La peinture japonaise - Les tresors de l'Asie - auteur: Akiyama Terukazu - editeur: editions Albert Skira ? Geneve - langue: francais - annee: 1961 - pages: 217 - passage:186., パブリック・ドメイン, リンクによる

これは実は一枚の絵というよりは、もう一枚の「桜図」と合わせて見たい作品。

長谷川久蔵「桜図」(部分)

Cherry-tree.jpg
長谷川久蔵 - Shimizu, Christine: L'art japonais, Flammarion, パブリック・ドメイン, リンクによる

等伯と、息子の久蔵が競作した障壁画です。大寺院を飾る障壁画を親子競作の舞台と出来ることは、等伯にとって一つの到達点だったに違いありません。

この絵は今も智積院で見ることが出来ます。
久蔵の「桜図」がすばらしい。父をしのぐ才能のある絵師だったと言われています。そして絢爛たる桜を引き立てるように等伯が描いた楓。この絵こそ一つの到達点――等伯はそう思ったことでしょう。

しかし久蔵はこの翌年、急死してしまいます。

絵師として後継ぎとして多大な期待をかけた息子である久蔵。
華やかな「桜図」「楓図」、そしてその後の「松林図」。
等伯の人生の喜びと悲しみの絵です。

智積院は京都国立博物館の近く。庭のすてきな、いいお寺です。

 

長谷川等伯、そのドラマチックな人生とともに。

「松林図」は一枚の絵として人の目を捉えて離さない魅力があります。そしてその背景には絵師のドラマチックな人生。能登の一絵師だった身が、当時絵画の激戦区だった京都へ出て少しずつ実績を積み、ついには主流の狩野派とわたりあえるようになる。

頂上に上り詰めたかと思ったのもつかの間、今後の長谷川派をさらに高みへ導くはずだった息子を失くし、失意に沈む。

その後20年、等伯は生きました。
最期は徳川家康により江戸へと呼ばれ、江戸までの旅の間に病気になり、到着して2日目に亡くなったそうです。

長谷川等伯。
その絵と、人生が魅力的な画家です。

 

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