【prose】

天を突き刺す

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真下から見上げると、青い空に突き刺さるような真白なビル。資本主義の牙城、という言葉が頭に浮かんだ。――牙城というおどろおどろしい言い方はふさわしくないけれど。ビルの造型はのっぺらぼうと言いたいほどツルツルピカピカだし、エントランスのそばではプレッツェルの屋台も出て、子供たちがのどかに遊んでいる。
だが資本主義の牙城というのはおそらく正しい。こののっぺらぼうのビルの中では、あまりに巨大すぎて口に出すのが恥ずかしいような言葉、「世界経済」の現実が動いているのだ。

しかしわたしには世界経済など縁がない。用があるのは展望台。ビルへ入り、展望台へ向かうためのエレベーターを探す。通路にはちょっとしたアーケードがあり店が並ぶ。
おっと。
通り過ぎようとして、時計屋のショーウィンドウに目が止まった。時計にも貴金属にも興味はないけれど、そこにあったのは可愛らしい細工物。ファベルジェのイースターエッグがモチーフ。この街にはイースターエッグの収集で名高いフォーブスコレクションもある。いい記念になるだろう。値段もCDアルバム一枚分ほど。
大きめのものから小さいものまで何十種類もあるうち、ピンクのエッグに心を決め、店に入った。店員はインド系かアラブ系の黒い髪の青年。「あのピンクのタマゴが欲しい」と言おうとして口をつぐむ。いかに商品とはいえ、突然タマゴではおそらく彼もわかるまい。ええと、細工物って何て言えばいいんだっけ。
「どれ?」
と、彼はカウンターの向こうから出てきて訊いてくれる。ショーウィンドーまで引っ張ってきて指をさし、
「あのピンクのやつ」
と言えば話は簡単。彼は緑の小箱に五センチほどのタマゴをそっと入れ、丁寧に包装してくれた。サンキューと言い合って別れる。一瞬の出会い。店員と客、それ以上でもそれ以下でもなく。

展望台は思っていたほど混んではいなかった。窓から外を見れば眼下は海。島へ渡るフェリーが白い波をたてながら進んで行く。右手を高く掲げた女神像も予想よりずいぶん小さく見える。
窓は足元ぎりぎりまでガラスになっている。最上階から見下ろすビルの真下。怖いもの見たさでじっと覗きこんで、車やバスが、地上で色とりどりの小さな虫みたいに動いているのを見ると――高所恐怖症ではなくても、さすがに腹の底がむずむずする。
記念コイン製作機械が展望台の片隅にあった。一セントコインと些かの手数料を入れると、コインそのものを極薄の板状に引き伸ばし、そこにこの建物の安直なレリーフを刻印してくれる。こういうのは好きだ。やってみよう。
わたしが入れた銅の一セント玉は、四センチ×二センチほどの歪な楕円になって機械から出てきた。小さくて安っぽくて、だからこそちょっと愛しい記念品。刻印された文字は、WORLD TRADE CENTER NEW YORK。

この場所は、今はもうない。ピンクのタマゴを買った店も、わたしが真下を覗きこんだ窓も、記念コイン製造機械も。
展望台から四囲の写真を撮ったのは、あの場所がなくなる二ヶ月前のことだった。もう二度と、あそこに立てないことをあの時のわたしは知らない。見降ろすブルックリンブリッジ、エンパイアステートビル、ハドソン川。あの景色が、間もなく二度と見られなくなることを。その時は誰も知らなかった。

まだ財布の中には、あの時作ったいびつな楕円形のコインが入っている。時々取り出して眺める。あの場所の欠片を。街を足元に置いて景色を眺めた浮き立つ気持を。――あの機械は同じようなコインを何万枚作りだしたことだろう。
世界中で何万もの人が、あの場所の欠片を心の中に持つ。今はもうない場所。無理やりに、唐突に、力によって消え去ったあの場所の。

(ただし消え去った場所があそこだけではないことを忘れたくはない。あの時起こったことの映像は目を疑うほど衝撃的で、心に刻みこまれてしまったけれど、世界中では「消え去った場所」が生まれ続けている。ニュースにもならない「消え去った場所」。この存在をも忘れてはならない)

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