【prose】

巨大な虚なる空間

更新日:

初めてのヨーロッパは。
イタリア・ローマ・ヴァチカン・聖ピエトロ寺院。

冬のローマは夜明けが遅い。朝七時近くになってようやく空の一部が紺色から朱色に変わる。ホテルで朝食を食べながら窓の外を見て、今日は晴れそうだと思う。ヨーロッパ、初めての一歩。
ホテルはロシア大使館のそばにあった。街角を、通勤のために大勢の人々が早足で通り過ぎる。――イタリアだったら、みんなが朝からピッツァやエスプレッソを片手に「チャオ!」なんて、陽気な挨拶を交わすものだと思っていたよ。だが、大都市ローマのこの時間この場所は、勤め人が最短距離で職場に向かおうとする乾燥した場所だ。旅行者だけが場違いな笑みを浮かべながら浮かれた足取りで歩いている。

パン屋から流れる焼きたてパンのいい匂い。走りだしたい心を抑えて、聖ピエトロ大聖堂前の広場へ、列柱の間を通って入り込む。
来た。
朝の光はまだ黄色味を帯びている。それに照らされた大聖堂の大理石の壁もわずかに黄色い。その上に広がる空はあくまでも清澄な青。広場の中心でぐるりと一回転してみる。大理石の列柱。飾られた石の彫像。
ヨーロッパだ。時間の層が厚く堆積した場所。今踏んでいる地面の下には、ローマ帝国の栄光が、初期キリスト教徒の受難が、ローマンカソリックの繁栄と腐敗と衰亡が染み込んでいる。その記憶が無言のまま周りを取り巻く。
わたしは笑って空を見上げた。

聖ピエトロ寺院はその巨大さで訪問者を圧倒はするけれど、大きさだけならば、世界の隅々まで映像が届く昨今、それのみで目を瞠らせるものではない。だがやはり内部空間のバロック様式は、実際に見ると異様なほど華やかで、余白のない装飾を見慣れていない目には驚きだ。床から天井をゆっくりと見上げて溜息をつく。これを作るのに費やした時間と労力と財力は一体どれほど。
はるか昔、ユダヤの地で生まれた新しい宗教は、歳月を経るうちに自らを肥え太らせて行った。この建物のどこにも、細々と迫害に耐えた初期キリスト者の影はない。ペテロの遺体の上に建てられたという言い伝えも、その骨が見つかったという知らせも、非キリスト者であるわたしには単なる知識であり、それによって感銘を受けるという性質のものではない。
そんなことを思いながら大聖堂の床の上に立っていると、ふいに強い違和感に囚われた。――ここには「中身」がない。
日本の巨大な建造物を思い出してみる。古代の出雲大社。東大寺大仏殿。三番目は……。実際に見たことのある建造物で言えば、京都の知恩院本堂はその大きさに驚いた。近代に復元された大阪城も大きな建物に入るだろう。新しい建物としては東京都庁や横浜のランドマークタワー。
しかしそれらは大きくはあるけれど、巨大な空間とは言えない。古代出雲大社が桁違いなのはその高さであって、本殿そのものの大きさは西洋の大聖堂とは比べるべくもない。大仏殿は大きいけれど、それは大きな仏像を入れるための容器としてだ。大極殿の空間も、おそらく広さも天井の高さも比較の対象にはならなかっただろう。
聖ピエトロ大聖堂の高い天井。何のために彼らはこれほど巨大な空間を作るのか。過剰な華麗さで飾るのか。清貧は彼らの初期の教義であったはずなのに。

俗界に対しての力の誇示という側面は当然あった。質素であることは人を引き付けないが、豪華さは目を驚かせ、人を呼ぶ。だが、それだけが理由だというには過剰なエネルギーを感じる。遠い東の国の、簡素を旨とする美的感覚を持つ人間からすれば、ここまで飾る意味を権力の誇示のみとは思い難い。やはり根本には宗教的に肯定されるべき理由が含まれているはずだ、と思う。
――宗教は主張なのか。
自分の存在を大いなる者に認めてもらうための。個としての人間が取るに足りない小さな存在であるのはわかっている。しかしそれに耐えられるほど人間は強くない。ならば、声を上げ続けることが天上へ向かって出来る唯一の行動。荘厳することで、捧げものをすることで、自分の存在に気づいて欲しい。有用な者であると認めて欲しい。際限なく華美になっていく過程には、そういう思いが込められているのか。
神への訴え。その手段としての捧げもの。捧げるための荘厳。際限なく飾らなければ不安なほど、彼我の距離を感じていた人々。
わたしはなにか悲しかった。バロックの華麗な装飾の影。潜んでいるものが多すぎる。パトロンたちはなんの疑問もなく豪華さを追求したが、しかしその背後には無意識の切ない叫びがあった。忘れないで欲しい、ここにいることを、救ってほしい、この世の終わりには。聖ピエトロ大聖堂の虚なる空間にはその叫びが残響する。

交差部まで来て真上を見ると、そこには穏やかな表情のドーム――窓から差し込む光が確実に天の存在を感じさせる。
光だけでは不安だったの?
誰ともわからない誰かに向けて問いかける。最大の恩寵を、日々降り注ぐ陽光に感じても良かったのに。東から陽が昇り、西へ沈む。その変わらない営みを、人間に対する神の最大の恩寵だと信じられれば良かったのに。
そうすれば過剰な装飾はいらなかった。
天をもっと近く感じていられた。

始めの一歩は聖ピエトロ大聖堂。
わたしはいつも思い出す。
夜明けのあの空を、大聖堂のあの虚なる空間を。

-【prose】

Copyright© 旅と風と日々のブログ , 2025 All Rights Reserved Powered by STINGER.