結局、朝から何度も目を覚まして、起きようかどうしようかと思っていたんだけど、
意地でも7:30までは寝てた。7:30に起きたら7:45にホテルを出るのは無理でしょう。
ということはつまり、新宮を観光してから渡瀬温泉へ行くのだ。
9:50、ホテル発。まあわりとグダグダしてたんやね。
何をやっていたか全く記憶にない。多分昨日買ったカットパイナップルとジャガビーの朝食を
食べたりしていたんでしょう。
ホテルに荷物を預かってもらい、ついでに昨日道の駅で買ったコンビニ傘も引き取ってもらい、
新宮観光に出発。ホテルには超狭いながらも喫茶コーナーがあり、そこは地元民らしき人で満員御礼。
お姉さんが一人で忙しそうに働いていた。
ホテル極近の徐福公園。
……ここは私設の公園なのかなあ?へー、財団法人設立なんだ。
徐福への切々たる思い入れが……。でも公園内には何か作業をしている人以外はわたししかおらず、
売店も開いてない。門構えに対して敷地は相当狭いですしね。
徐福像と徐福の墓。あ、そうそう、徐福というのはどういう人なのかというと、こういう人なの。
こういうのを見ると、徐福が流れ着いたとされるそれぞれの場所で、「いや、うちの土地が」
「うちが」「うちが」と喧嘩しないのかと心配だよ。
次は丹鶴城。
がっつり石垣を組んだのは江戸時代初期らしいね。
だが、こんな石碑があり、むしろ後世の人は丹鶴姫推しらしい。
丹鶴姫とは、源為義と熊野別当娘との間に生まれたお姫様だと言われており……
新宮十郎行家はその弟。
ああ、新宮十郎行家か。そういえばここはまさに新宮だった。
行家もまんざら知らない仲ではないので、そう思って改めてこの場所を見回す。
晴れた日の、明朗な熊野川、紀州灘は――行家の人生にはそぐわない。
策士たらんとしてなれず、うまく立ち回ろうとして行動し、それが裏目に出て行く人生。
彼は義経の人生を変えた。変えなかった。どちらともいえる。
変えたというのは、行家から以仁王の令旨のことを聞いたという意味で。
変えなかったというのは、行家が伝えなくても、いずれ義経は鞍馬寺を出ていただろうという意味で。
それから、没落の義経が最後に組んだのが行家。頼りにはならない叔父だったろうに、
その口車にのせられて……と思えば義経が哀れではあるが、当時の義経には他に組む相手はいなかった。
城跡はとても山の上。
なので景色はいいが、……登るの大変。暑いし、ハーハー言いながら坂道を登る。
そんな時、幼稚園児のお散歩軍団とすれ違い、彼らの元気さに敗北感を覚える。
いや、この子たちは下り坂だもの!元気で当然だよ!
しばらく城跡に佇んで休む。