28.金子みすゞの町、仙崎。

北九州・山口/2025

仙崎は金子みすゞの生まれ育った町です。

発見された、金子みすゞ。

今でこそ人々の知る金子みすゞですが、それも最大限にさかのぼっても1984年まで。この年に自分も詩人である矢崎節夫が「金子みすゞ全集」を編纂したことで世に出た。

 

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その後、みすゞの伝記を同じく矢崎節夫が1993年に出版する。そこからです、本屋の平積みに金子みすゞの本が並ぶようになったのは。教科書にも載るようになった。2001年にはみすずの生涯のドラマ化、映画化が相次いで行われ、金子みすゞは生前の万倍の人に知られるようになった。

 

矢崎節夫は1966年、大学生の時にみすゞの「大漁」に出会って感動し、彼女の作品を探し始めた。だが、手軽に読める状態で出版されているものは「大漁」一篇のみ、他にはまったく手がかりがない。そのため、彼はその後の十数年をみすゞの掘り起こしに心血をそそぐ。

金子みすゞは生前、詩の雑誌に積極的に投稿をして、全国に愛読者はいたとはいえ、単独詩集などはない。童謡詩人会という団体に所属が認められてはいたそうだが、東京から遠い山口県在住のみすゞは投稿以外の参加はおそらくなかったはず。ちなみに童謡詩人会の会員は西條八十、泉鏡花、北原白秋、島崎藤村、野口雨情、三木露風、若山牧水など、そうそうたる顔ぶれ。この中で、地方在住の若い女性という意味でみすゞの存在は異質といっていいものだろう。

投稿時期は1923~1929年。1926年頃から不幸な結婚生活に入り、文学活動も激減する。性格の合わなかった夫はみすゞの文学活動を禁止し――まあ当時の常識的には一概に責められない――みすゞをさらに追い込むことになった。

女遊びの激しかった夫から病気を移され、離婚をし、経済的にも先行きは不明。そこに夫からの子供の親権を渡せ、という要求。これがみすゞの自死の決定打になった。どうしても夫に子供をゆだねたくないと思い詰めたみすゞは、自分の死でそれを妨げようとした。「娘の養育は自分の母に」という元夫宛ての遺書を残してみすゞは死ぬ。享年26歳。

2001年に制作された映画とドラマはどっちも見たし、みすゞの人生のアウトラインは知っていた。しかしそれも20年以上前のこと。今回ひとまず「別冊太陽」で予習をし、それを読んだら矢崎節夫「童謡詩人 金子みすゞの生涯」を読まずにはいられなくなった。

 

矢崎節夫がいなければ、おそらく今の金子みすゞはいない。

詩の雑誌への投稿者。――そういう存在はいくらでもいたと思うんですよ。その中で評価が高い人も何人もいただろう。金子みすゞを高く評価したのは、とりわけ西條八十。しかし有名人に評価されても、全国にファンがいても、――当時それほど簡単に本を出版しましょうという話にはらないし、みすゞの境遇で自費出版ということもなかった。今ならば無料で、登録するだけで拡散してバズる可能性もあるが、当時そういうこともなかった。

雑誌は本よりもだいぶ消耗性が高い。みすゞの詩が載った大正期の雑誌は、当時国立図書館でもなかなか収蔵品がなかった。そこからもう死んでいるみすゞに繋がるための、そもそも方法がない。

これは相当に執念深く追い続けなければ出来ない仕事でした。矢崎のその執念深さ、情熱がようやく突破口を得たのは、手を尽くして下関にいるみすゞの縁戚を探し当て、電話で「お話を伺いたい」と申し込んだ時。「わざわざ下関まで来なくても東京にはみすゞの実弟がいる。そっちに訊いた方が早い」。

実弟は劇団若草の創始者の上山雅輔でした。もう消滅しまったけれども、70年の長きにわたって活動した有力劇団だった。山本耕史、高橋一生、吉岡秀隆なども所属歴あり。そこで矢崎が雅輔を訪ねて行くと、まさしく雅輔は金子みすゞの実弟で――みすゞの残した作品手帳、数少ない写真と数多ある思い出までたどり着いた。

そこから何年か経ての作品集、さらにそこから雅輔を始め、親戚、同級生、ご近所さん、子孫へ丹念な取材を重ね、10年近く経てのみすゞの伝記。

再掲。

再掲せざるを得ないほどの労作です。みすゞに興味がある人は全員読んだ方がいい。

仙崎一望。

この本を読んだら、仙崎をおざなりに歩くことは出来ないわけですよ!

お昼を食べた浜屋さんを後にして、最初に目に入る祇園社を見てもあだやおろそかには思えない。

みすゞも間違いなくこの社を訪れただろう。お祭りの日はきっと近所の子と手を繋いで、心躍らせながら提灯の明かりを見つめただろう。たとえばあさがおの柄の浴衣を着て。

漁港の風景を。

そこに浮かぶ弁天島を見ても、みすゞのまなざしを感じる。

みすゞの頃にはなかった青海大橋を通って、青海島の王子公園へ。公園と言い条、……これ公園?という小さなスペース。

王子山公園から見下ろす仙崎の町。海に浮かんだ島みたいに見える。

 

わたしの町はそのなかに、
竜宮みたいに浮かんでる

――金子みすゞ「王子山」

みすゞの頃は青海大橋がなかったので、こちら側へは渡し船で渡ったそうです。たしか祖母の家が青海島にあったはず。よく行っていたそうだ。

今回、青海島側の景勝地にも行きたかったが、公共交通機関ではちょっと無理な位置関係でした。時間があれば波の橋立には歩いても行けたかもしれないけどなあ。レンタカーも一応検討したが、仙崎にはそんなにレンタカーはなかった。センザ・キッチンにたしか2台あるという話だった気がするが、品薄なレンタカーの1台を自分が占有するのが気が引けたので。

数々の“みすず”。

これからさっき見下ろした仙崎の町を逍遥するわけですが、仙崎はまことにまことにみすゞの町でした。

町のいたるところにみすゞの言葉がある。

行政が作ったのであろうものも数多いが、町の人が作ったであろうみすゞの詩のプレート――詩札(うたふだ)と名付けられているらしい――に心温まる。

木製板だけではなく、紙に描いたものを窓ガラスに貼りつけたり、プリントアウトしたり、方法は千差万別。子どもが描いたであろうもの、大人の作品。巧拙とりまぜて思い思いのデザインが味わいになる。町の人々がみすゞに寄せる思い、あるいはみすゞの言葉をつづることを通じて町を愛する思いが伝わってくる。

王子山から下りて、青海大橋の坂を下る。

 

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