◎千秋公園界隈と長浜古戦場。

横手・秋田/2026

秋田市の目的は秋田市立千秋美術館だったのだが、……ごめん!関係者のみなさまには大変申し訳ないことながら、ここのことはまったく覚えてない!

特別展は興味がなかったので、常設展しか見なかったんですよ。そうするとほんとーに展示数が少ない。何を見たのかすら覚えていない。
小田野直武の「児童愛犬図」を見た。それしか覚えてない。
まあ小田野直武が目的だったんだからいいでしょう。

収蔵品にはちょっと良さそうな日本画もあるようなんだが、今回は見られませんでした。

「ブランジーノ アキタ」さんでランチ。

千秋美術館の裏の通りをちょっと物色して、結局一番最初にいいなと思ったイタリアン「ブランジーノ アキタ」さんに行きました。この日はミートローフのプレートランチ。他に魚もありました。

イタリアっぽい店の設え。前菜が出て、色がきれい。ミートローフは量がたっぷり、野菜もたっぷりで健康的な感じ。スープのたっぷりもうれしかったのだが、付け合わせのパスタは味がクリーム系だったらよかったと思った。ミートローフがデミグラス、パスタがボロネーゼだと味が近いんですよね。

そしてその後は千秋公園をちょこっと散策。

暑い日だったので、ほんのちょっとの散歩でカンベンしといて(?)やりました。

 

お城跡ということを考えれば当然のことながら、意外に高低差がある公園で、門が高いところにありました。……まあその分、暑いなか登るのは大変なのだが。八幡秋田神社までしか行かなかったので、お城としてはむしろその先の方が真髄だったのかもしれませんね。佐竹資料館にも行くつもりでいたけど「疲れたからいいやー」で切り上げた。車にいると少なくともエアコンは効きますからね……

さつき咲き乱れる、美しい公園でした。

下浜長浜の戦いの地。

次に秋田市南部の下浜長浜の地へ向かいます。ここは戊辰戦争の際の戦場の一つで庄内藩と久保田藩(旧幕側と新政府側)が戦った場所。およそ150年前の話。

ここに松山藩士の墓があります。

 

秋田県秋田市下浜長浜兜森206ー3 周辺

松山藩は現在の山形県酒田市松嶺地区(旧松山町)にあった、庄内藩の支藩。石高2万5千石の小藩で、初代藩主は庄内藩主酒井氏からの分かれ。

まず庄内藩の話をすると、庄内藩は幕末において幕府を支えた藩のうちの一つでした。血脈的に徳川四天王の酒井家であるため元々徳川家との縁が深く、幕末においては江戸の町の治安担当に任命される。これによって討幕派との衝突が生じます。薩摩藩と裏でつながる浪士たちに対抗するため、薩摩藩邸を焼き討ちしたりしている。そのため戊辰戦争ではバチバチに戦うことになります。

同族である松山藩も当然庄内藩に従う。東北の戊辰戦争は、幕府側につくべきか新政府軍につくべきか、それぞれの藩が生き残りの可能性を賭けたぎりぎりの選択でした。新政府軍の高圧的な態度が反新政府の立場へと追いやった側面もあったといいます。これが実戦の場を求めての新政府軍の企図だったのか……それはわかりません。

あちこちで戦われた戦の一つが、秋田市南部の長浜で行なわれた長浜の戦い。
庄内藩は高性能の西洋式武器が潤沢にあったこともあり、時と所を変えて行われた幾度かの戦いで一度も負けなかったと言われています。「鬼玄蕃」とあだ名がついた酒井了恒(さかい・のりつね)の指揮が優れていたという見方もある。ちなみに「鬼玄蕃」というあだ名の人は史上何人かいるようです。

だが強い軍勢だったとはいえ、戦なので、当然死んでしまう人もいる。この長浜の戦いで命を落とした庄内藩士、松山藩士が何名かいました。

彼らはそのまま、この地に葬られたそうです。地元の人か、味方の藩士が――いずれにしても地元の人が教えてくれないとお墓にしていい場所なんてそうそうわからないと思うので、地元の人の手助けは必要だったはずだが――死者を葬ったらしい。

敵を葬る行為自体も尊い。状況的に憎みあった敵同士というわけではなくても、家の近くでドンパチしていること自体は大変迷惑な話だし、おらが殿様と戦をしているとなれば、やはり敵は敵だろう。そこをきちんと葬ってくれるのも尊い。

 

でも本当に尊いのは、現在の状況だと思ったんです。どういうことか。

ちょっと写真が続きますが。

だってこんなに奥の藪の中なんですよ!

高さ2メートル超の笹がびっしりと生えた藪の中。20メートルというとわずかな距離に感じますが、50メートルくらいは歩いたと思う。そこまでこの藪を切り開いて、単なる小さな石碑まで行けるようにしてくれているこの行為!

――これはほんとに頭が下がると思いました。行政がやってくれてるんですかねえ。それとも町内会で?いずれにしろ整備をしてくれている方ありがとう。看板も立ててくれて。おかげさまで石碑までたどり着くことが出来ました。

上下に割れて、下の部分はもう文字も読めなくなっている。150年前の墓標。槍隊だったらしいですが、持っていた武器は実際は鉄砲だったと聞いたことがあります。

 

本敬寺。

お墓から徒歩5分ほどのところに本敬寺というお寺があって、松山隊士の慰霊碑が建てられています。これは後世のもの。

 

慰霊碑はここにありますが、おそらく住職の方は詳細はご存じないと思います。なので庫裡を訪ねる必要はないかも。

松山隊士の詳細については松山藩の城址跡に建つ、松山文化伝承館に多少残っています。
住所としては酒田市新屋敷36-2。

 

酒田から秋田というこの距離を、戦うために移動したんですねえ。100キロ近くも。いったい何を思いながら。

千秋公園と長浜古戦場を観光し、秋田市を後にします。

 

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