日本史上の人気ベストテンなどの企画はあちこちで行われ、その時々で結果も変わります。わたしは今回、
1位:織田信長
2位:坂本龍馬
3位:徳川家康
の結果を採用していますが、1位2位の信長と龍馬、そして3位の家康は毛色が違っていると思う。
信長と龍馬には「自由」「斬新」「変化」などのイメージがある。それがゆえに憧れる存在になるのでしょう。しかし家康は憧れというより「目標になり得る人」なのではないでしょうか。
家康の、最大のキーワード。
天下統一。
→江戸幕府開府。
→徳川支配260年。
たとえどのような手段を用いたとしても、260年続く権力の構築をしたのはすごい。まあ実際に構築をしたのは二代将軍である秀忠、三代将軍である家光――というよりその官僚たち――だったでしょうが。
後世から見れば、信長がいて秀吉がいて、家康が天下統一したのは自然な流れに思えますが、およそ100年続いた戦国時代を収束させたわけですから、これは特筆すべきだと思う。「戦がない世の中」をこの時代生きていた人は誰も経験していないのですから。
戦国時代に日本に滞在していた宣教師が本国に書き送った報告書に「日本人というのは好戦的で、裏切りが日常化している」と書かれたものがあるそうです。そんなことを言われるのは不本意だが、……それは事実かも。それくらい戦は日常茶飯事でした。
家康の幼年時代。
〇三河の国(現在の愛知県東部)の土豪の嫡男として生まれる。強国の今川氏が東隣にいて、西隣が最近強くなってきている織田氏(この頃は信長の父・信秀の時代)。そのため幼年期から人質生活。
〇父は今川側に味方し家康を人質として送ったのですが、途中親戚の裏切りに遭い織田方の領地へと連れ去られた。というのが長年の定説でした。昨今では新資料が見つかり、父の判断により最初から織田方へ送られたという説もあるそうです。
〇2年ほど織田の元にとどめられ、人質交換で今度は今川の元へ。徳川家康は生涯で何回か名前を変えていて、竹千代(幼名)→元信→元康→家康と変化しますが、元信と元康の「元」は今川義元の「元」をもらったものです。
同盟相手を今川から織田へ切り換える。
〇今川氏の庇護の下で元服し、義元の姪(のちに築山殿と呼ばれる女性)と結婚もします。結婚相手として姪という義元に近い親族が決まったのは重んじられていたからでしょう。……が、この関係は後に悲劇の結末を迎えます。
〇織田信長が今川義元を倒した桶狭間の戦いは家康17歳の時。当然、今川方として戦いに参加しています。先鋒を務めたらしく、頼りにされていた様子がうかがえます。しかし義元は信長に討たれる。
〇その後、家康は人質生活を終わらせ岡崎城へ戻ります。お父さんは家康が5、6歳の頃に亡くなっています……。主君が幼くて他国で人質になっているのによく領地が持ちこたえられたものだ。領地へ戻った家康は今川方の城を攻めて今川と決別します。そして織田と結ぶ。元康を改名して家康と名乗る。
☆……十数年も居た今川から織田に乗り越えるにあたっては、どんな心の動きがあったのだろうかと興味深く思う。
今川義元は、油断して桶狭間で討たれたとか、お歯黒に白塗りで京都公家のように軟弱だったとか後世のイメージはあまり芳しくはないですが、それはあくまでもイメージで、実際は武芸に長け、政治・外交にも強かった人の可能性が高いです。その後を継いだのはまだ22歳の嫡男・氏真。
氏真と家康は3歳しか違いません。当然面識はあったと思われる。立場としては人質と今川家の跡取り息子ですが、それを越えて親しくなる可能性はあったはず。先々を考えて苦しい思いで今川との関係を絶ったのか。辛い人質生活で今川を恨み、関係を速やかに解消したかったのか。どちらの思いが強かっただろう。
この頃、家康は18歳です。領主とはいえ人生のほとんどを今川の領地で過ごした家康は、家臣たちに対して影響力があったのか。それとも孤立していたのか。
信長との同盟はおよそ20年続きます。
〇家康は嫡男と織田信長の娘とを縁組みさせます。とはいってもこの時2人は8歳でした。嫡男は信長の「信」の字をもらい、元服後は「信康」と名乗ります。
☆名付親というのは特別な関係なので、信長の「信」の字を貰うということはずっとついて行くという意志表示ではあるんですね。もっとも家康自身、今川義元から貰った「元」の字をさっさと捨てて、信長に乗り変えているわけですが。しかも信康と信長は婿と舅の関係になりますから、さらに強い結びつきと言えます。
〇この頃中部から関東にかけて――織田、武田、北条、上杉という大物たちが、結びついたり戦ったり、また同盟を結んだりいろいろやっています。それらの大物よりまだ弱小だった家康は、あっちについたりこっちについたりだった様子。まあ武田と織田に挟まれた時点で(もっと前には今川と織田に挟まれた時点で)平和にのんびりと暮らすという選択肢はなかったでしょう。
〇東から攻め込んで来た武田氏とは何度か戦うことになります。その中で有名な2つの戦いは三方ヶ原の戦いと長篠の戦い。
前者では武田信玄相手にこっぴどくやっつけられ、家臣が身代わりになってくれて命からがら逃げかえった。ようやくお城までたどりついたものの、追撃してくる武田方を迎撃する兵も残っておらず。一か八かで大きく城門を開き、わざと隙だらけの様を見せたところ、それに警戒し武田軍が引き返し九死に一生を得たそうです。
☆この負け戦の記憶を肝に銘じて以後の教訓にしようと、家康はこの時の自画像を描かせているそうです。
「徳川家康三方ヶ原戦役画像」別名「顰像」(しかみぞう)。
こんなスタイルの肖像画は珍しいと思う。負けた時の自分の絵を描かせて省みる、さすが家康……と納得しそうになりますが、これは実際には昭和初期くらいに徳川家から発生した伝承らしいですね。歴史学的には裏付けの取れない話らしい。
〇翌年、再び信玄率いる武田勢が攻めてきます。もしそのままだったら三方ヶ原の戦いと同様こてんぱんにやられていたかもしれない。が、そこで信玄が突然死んでしまいます。信玄が死んだ事実をひた隠しにしながら、武田軍は退却していきました。
〇その後2年ほどの間、攻めたり攻められたりの小競り合いが続きます。相手に陰謀を仕掛けたり仕掛けられたり。
☆――戦国時代といいますが、この頃は本当に戦が日常生活だったんだなとつくづく思います。戦自体は数日で終わることもあるでしょうが、そこまでの移動、食料の調達、武具の調達もあれば、相手方への情報収集、仕掛ける調略のあれこれ。一年中が戦といっていいですね。
しかも領地を接している敵が何人いるのか……。遠交近攻(遠い国と仲良くし、挟み撃ちにして近くを攻める)というのは戦略の基本ですが、隣国が何ケ国かによってどの国と仲良くしてどこと事を構えるかというのは必死で考えなければならないですよね。まるでパズルのようです。自分の国をかけたパズル。
〇2年後、信玄の跡を継いだ武田勝頼を相手に信長・家康の連合軍は長篠の戦いで大勝します。この戦いに勝ったことで武田に対する優位が確定。一つ大きな敵が減ります。
☆信長から見れば家康はいわば「舎弟」のような存在だったでしょうね。年齢差9歳(信長が上)というのもそうだし、元から勢力は徳川の方が小さかったわけだし。使い勝手のいい味方。
〇長篠の合戦から4年後。衝撃的な出来事が発生します。家康の正室・築山殿と嫡男・信康の死。それも2人の死を命じたのは家康だったというのです。
この時の経緯にはいくつかの説があり、現在もはっきりしたことはわかりません。
大きく分けて説は2つ。
1.信長が2人の死を家康に命じ、家康は断腸の思いで従わざるを得なかったという説。
2.家康が築山殿と信康の言動へ不信感を持ち、不仲となって殺したという説。
信康の正室は信長の娘でした。しかし夫婦仲は悪く、娘が父の信長の元へ「信康と築山殿は武田に内通した」と書いた手紙を送ります。1の説では、それを基に信長が2人を殺すよう家康に命じたと言われます。
家康が2人を殺したという説は「家康の派閥と信康の派閥が出来て、権力が不安定になったこと」「信康のふるまいが粗暴で、後継ぎとして先がないと思ったこと」「築山殿との不仲」などなど、多くの要因が挙げられます。
わたしとしては信長が命じたというのは無理がある気がします。武田が脅威だった頃なら万に一つあり得たかもしれないけれど、この時期なら武田は衰退し、家康は安定した力を持っている頃。そんな同盟者に向かって長男を殺せとは、いくら信長でも言えないのではないでしょうか。
派閥対立の方が現実味がありそう。父派と息子派が割れて国が落ち着かないという場合、親子の戦争に発展することは歴史上何度もありました。斎藤道三親子、武田信玄親子など。
信康は猪突猛進、わがまま、粗暴と言われていますから、隠忍自重してじっくりパワーバランスを考える家康から見れば、後継ぎの器じゃないと思われたのはありそうなこと。
〇その後、織田・徳川の連合軍は弱体化していた武田氏を滅ぼし、戦功により徳川は今の静岡県までを領地とすることになりました。だいぶ領地が大きくなった。
〇しかしその直後。家康が41歳の時、本能寺の変が起こります。わたしは武田氏を滅ぼしてから本能寺の変まで数年あった印象だったんですが、同じ年なんですねえ。
〇この本能寺の変が起こった時、家康は少人数の供と大坂の堺に滞在していました。信長が討たれるなど青天の霹靂。自分の身も危ういと思った家康はとにかく領地を目指します。危ない思いをしながら堺から街道を避け、伊賀の国の山を通って海を渡り、ようやく岡崎の城へ帰りつきました。これが「家康伊賀越え」と呼ばれる出来事です。命からがら逃げかえることが多い人だ。
秀吉の臣下として。
〇その後、武田氏が滅亡した後の領地を関東の大大名・北条氏と争い、最終的には講和により現在の長野・山梨を手に入れて、全部で五か国を領する大大名となります。結果的には信長の死後の混乱が、家康を東側の領地争いに専念させたという側面もあったかもしれない。
〇家康の西側及び京都周辺の状況はどうなっていたかというと、信長死後は家臣の一人、豊臣秀吉(この頃はまだ羽柴)が上手く立ち回って最大派閥になります。東で領国を大きくした家康と、信長の勢力を継いだ秀吉。両者は小牧・長久手の戦いで争いましたが総力戦には至らず、その後話し合いにより和睦に至ります。家康の方が弱い立場での和睦だったらしい。
〇その後、家康領国内で飢饉・自然災害が発生し、家臣の対立もあり領内は不安定な状態に。東側では家康が秀吉と結んだことで北条氏との間に緊張が起こり、こちらも不安定。そういう状態を見て、秀吉が「和睦」ではなく完全に家臣になる「臣従」を迫ります。
〇何とか臣従関係にならないように家康は努力しますが、秀吉はしぶとい。自分の方からは、築山殿が亡くなってから正室がいなかった家康に妹を嫁がせ(←実質的人質)、その代わりに家康の庶子・信康を養子にします。これも実質人質。関係を深くして身動きがとれないようにする作戦。
☆この時家康45歳、秀吉の妹は44歳。心ならずも強要された婚姻関係で、愛情は芽生えないだろうなあ……と思うと、たくさん側室がいた家康の方はまだしも、敵地に送られる秀吉の妹の方はどれほど孤独かと思いますよ。この人は数年後に亡くなってしまいます。短い結婚生活でした。
〇陰で頭を下げるようにして臣従の約束を取り付けた秀吉は、家康に諸大名の前で臣従の礼をとるよう命じます。家康が従うことを他の人々に見せれば秀吉の権力に箔が付く。それだけの重みをこの頃の家康は持っていたんですね。
〇それから4年。秀吉は最後の大敵、北条氏を倒すため小田原攻めを行ないます。当然家康も秀吉に従う。しかし北条氏と家康は縁戚関係にあったので、戦になる前に豊臣川として和睦交渉もしています。しかし北条氏は戦を選び、敗れていきました。
〇勝利後。家康は秀吉から今までの領地からそれまで北条氏の領地だった関東の地へ引っ越すように命じられます。これは石高でいえばおよそ120万石から250万石へ大加増ではあったのですが、「元々の本拠(岡崎・駿府)を手放すこと」「手に入れたばかりの敵地で、領民は北条氏を慕っていたこと」などから、家康側から見るとむしろ辛い転封だったと思います。せっかく秀吉に協力したのに……。裏切られた感まであったのではないでしょうか。
〇それからの家康は、新しい領地である関東の内政に心を砕きます。とにかく足元を固めること。地力をつけること。それも秀吉に危険視されることなくこっそりと。それには京都から遠い関東の地は比較的有利だったかもしれません。
秀吉死後の世の中。
〇秀吉に臣従しておよそ10年。秀吉が亡くなります。死ぬ前に跡取りの秀頼を家康に託したそうです。晩年、朝鮮出兵という無謀な企てをした秀吉を見れば、若い頃の明晰な頭脳は衰えていたのかとは思いますが、死ぬ間際は秀吉もわかっていたのではないでしょうか。家康が秀頼に仕えることなどあり得ないと。
☆家康は秀吉の能力を十分認めていたことでしょうが、心服したことはなかったでしょう。心から家臣になったわけではなかった。秀吉の死後、秀吉の子飼いの家臣たちが家康を危険視し、なんとか自分をつぶそうとするのも予想出来た。秀吉存命時は従えても、彼亡き後、小者たちにいいようにされるわけにはいかない。家康には豊臣家に従う理由がなかったように思われます。
〇家康はじわりじわりと動きます。まず行なったのは他大名との政略結婚。自分の息子や養女たちと有力大名の子息たちを結婚させます。これは秀吉によって決められていた婚姻禁止の決まりに背くことで、特に豊臣方の反感を買いますが彼らはそれをとどめる力を持っていません。家康は各大名との親交を徐々に深めていきました。
〇豊臣方は豊臣方で、この時期に内紛。武闘派の家臣が官僚派筆頭の石田三成を襲撃します。三成はその場を逃れ自分の屋敷へたどり着く。両者にらみ合いが続く中、家康が仲裁に入り和議が結ばれました。結果、三成は自分の城である佐和山城で蟄居することになり失脚してしまいます。
〇頭脳となり得るほぼ唯一の人材を失う豊臣方。以後、家康が中心となって政務を執ります。ここまでくれば豊臣方が一枚岩として結束する可能性はほぼ消えました。家康は豊臣家の家臣筆頭としての顔を保ちながら、着々と天下への道を辿ります。
天下を手に入れる。
〇運命の1600年。越後(現在の新潟県)を治めていた上杉景勝に豊臣家に対する謀反の疑いがあるとのことで、家康は新潟へ兵を進めます。この出兵には朝廷からも豊臣家からも後押しがありました。
〇しかしこの出兵は石田三成の挙兵を誘う狙いがあったといいます。事実、家康が大坂城を出て越後へ行った隙に三成が挙兵。大坂城を乗っ取り、家康に次ぐ大大名・毛利輝元を総大将へと口説き、反家康連合軍を作りあげ対決しようとします。
〇この企てが失敗したのは――三成が他の秀吉子飼いの武将たちから嫌われていたから。生前の秀吉は三成を高く評価しており可愛がっていましたが、彼は文官。戦いには出ません。頭が良く、秀吉にとってはなくてはならぬ片腕だったでしょうが、それが昔から仕えて来た武将たちには腹立たしい。戦も出来ない腰抜けがなぜ我らよりも優遇されるのか。
☆頭のいい人だったんだからそこらへんも上手く立ち回ればいいのに、人付き合いの方向には頭が働かなかったようです。豊臣内部で仲間割れをすれば家康の思うつぼなのに。三成が声をかけても人が集まりません。
〇三成の挙兵を聞き、家康は上杉征伐の軍を返し、自らの本拠地である江戸城へ戻ります。そして関ヶ原(現在の岐阜県)で両者衝突。三成の挙兵が7月で関ヶ原は9月ですから、その間に諸大名との工作が双方いろいろあったでしょう。この時、秀吉子飼いの武将たちは徳川方についています。三成は豊臣家を食おうとする家康を倒したかったわけですが、家康は「三成を討つ」と言っていたので、三成嫌いの武将たちが家康についたんですね。
〇関ヶ原の戦いは激戦で、家康の命が危ない場面もあったくらいです。家康も三成もこの戦いがあることを予期していたでしょうが、何しろ誰が味方につくかの交渉は三成挙兵後の2ヶ月間。事態は流動的でした。慎重なイメージのある家康が危ない橋を渡ったものです。
〇この戦いは小早川秀秋をはじめとする幾人かの寝返りによって家康側の勝利。これが家康が権力を握る決定打でした。家康は敵側に回った大名の改易・取りつぶしを行ない、さらに自分の領地を250万石から400万石に増やし、自分についた味方の大名たちにも恩賞を与えました。
☆豊臣秀頼本人は関ヶ原の戦いには参加せず――この時7歳ですから戦闘には参加しなくても仕方ないですが、母の淀君も含めて三成に積極的に加担するわけでもなく。この時の三成はかわいそう。三成は「秀頼さまのために家康を除く」といって戦っているんですよね。でも家康も「秀頼さまのために悪臣・三成を成敗する」といって戦ってるわけで、双方ともに秀頼のために戦った天下分け目の戦。変な話です。まあ家康は口先だけですが。
〇関ヶ原の戦いの3年後、家康は朝廷から征夷大将軍の位を授けられます。これは言葉の上では「東の蛮族を討つための将軍」という意味で、平安時代に東北の蝦夷を討つ際に臨時で与えられた地位だったのですが、鎌倉時代に源頼朝が受けて以降意味が変わります。幕府を開いてもいいよ、という許可になるんですね。
〇幕府とは武士が政治を行なう機関のこと。幕府を開ける=名実ともに日本を支配する権力者。江戸幕府開府=江戸時代の始まりです。
最後の一手。豊臣家を滅ぼす。
〇その後家康は早めに引退します。征夷大将軍を息子の秀忠に譲り、江戸を離れて駿府へ隠居。大御所と呼ばれるようになります。
〇しかし政治の実権は手放さず、家康・秀忠の二頭政治が続きます。二頭政治というよりやっぱり主体は家康ですかね。政治の日常業務は秀忠が行ない、大事なことを決めるのは家康だったと思う。これは秀忠に気概があったら親子戦争になりがちな構図なのですが、秀忠は真面目・律義な性格で家康の命に忠実、むしろ親父殿がしっかりリーダーシップを取ってくれることに安堵していた感触があります。
〇その家康には――最後の一仕事としてある大きな決断が待っていました。それが「豊臣家をどうするか」という問題です。
☆最初から豊臣家廃絶と決めていたわけではないと思うんですよ。孫娘の千姫を大坂城に送って秀頼と縁組をさせているわけですし。一緒に京都へ行って天皇に挨拶しようと誘ったこともある。一大名として存続させようと考えた時期もあったと思います。
☆でもそういう家康の思惑……というよりは配慮に気づかず、ひたすらに家康を敵視し続けたのが秀頼側でした。残念ながら秀吉死後、豊臣方にはお家の舵を取る人がいない。形式上のトップは秀頼で、おそらく実質のトップはその母・淀君でしたが、世間知らずな母子にとっては「秀吉の子の秀頼は何もせずとも天下の主」であり、その地位をおびやかす家康こそ悪であって、きっとその邪悪な企てをどこかの誰かが正してくれると思っているんですね。
☆堅固な大坂城とそこに蓄えられた金銀――。たしかにそれは大きな財産だけれども、むしろそれがあるからこそより一層豊臣家は危険な存在になる。大坂城と金銀を明け渡せば生き延びる道もありました。が、豊臣方は家康の提案をことごとく拒否し、滅びの道を進みます。
〇きっかけは京都・方広寺の鐘でした。豊臣家が奉納にした梵鐘に書かれた文言に「国家安康」という文字が。これを家康の名前をちょん切った呪詛だとし、家康は豊臣家に対して兵を起こします。
☆これは従来「理由にならない理由」単なるいちゃもんだと言われてきましたが、現代の感覚とは違って、当時名前をこういう風に扱うことは相当不敬なことだったらしいですよ。わたしはわかっててやったというのはありそうなことと思っています。偏見ですけれども。根拠は「淀君はそういうことをやりそう」ということしかないのですが。全然実効性のない呪詛を行なって自分が詰んでるんだから、ブレイン不在は悲惨です。
〇そして大坂攻めが始まります。まずは冬の陣。20万の大軍で攻め寄せた家康でしたが、数に任せた攻撃はせず、包囲した上で様子を見ているように思える。これが大坂城の堅固さを考慮した上で、味方の損失を出来るだけ最小限にと心がけた結果なのか、この後に及んでも秀頼を生かそうとした配慮なのか……どちらの理由もあるかもしれませんね。
〇小規模な戦いは数々あり、双方勝ったり負けたりしています。真田幸村の善戦などがありながらも、この戦は豊臣方から和睦を申し出ることでひとまず終わりました。大坂城に打ち込まれる大砲が恐ろしすぎて淀君が音を上げたと言われています。実際城の一部が崩れて淀君の侍女が犠牲になったとも伝えられていますから、その恐怖は相当なものだったでしょう。
〇和睦の条件として出されたのは「大坂城の二の丸、三の丸と堀を埋めること」でした。この「堀」というのが本来は外堀だけの約束で、徳川方が裏切って内堀も埋めてしまったというのが通説ですが、これは豊臣家も了承していたことなのではないかという意見もあります。
☆しかしこの「堀問題」、いつも疑問に思う。豊臣方が持っている唯一の武器といったら大坂城じゃないですか。その防御力を各段に削いでしまうこの和睦条件を飲んで、それ以後をどう乗り切ろうとしたのか。防御力が100あった城に籠城しても大砲で脅されて和睦をするはめになったのに、外堀を埋められて二の丸三の丸を破壊されて、防御力20になって、それからどうするという話ですよ。ここでも響く、ブレイン不在。
〇家康が求める大坂城からの退去を豊臣方は断っています。これもなあ……。断れる立場ではないんですよね。辛抱強い家康も、秀頼を死なせるしかないと思ったでしょう。「大坂城にいる秀吉の遺児秀頼」というシンボリックな存在に家康側は脅威を感じているのだから、生き延びるつもりなら家康がくれる小さい所領をもらって、さっさと引越しすれば良かったのに。
〇そして大坂夏の陣へ。前年の冬の陣と違い、今回の豊臣方は籠城戦ではなく野戦に打って出ます。周辺の大阪・奈良での局地戦がいくつかあったあと、徳川方の主力が大坂城へと攻め寄せ、堀も埋められた大坂城は防御機能をすでに失っており落城しました。
〇家康の孫娘・千姫の返還と引き換えに淀君・秀頼の助命嘆願が出されましたが、家康はその判断を息子の秀忠に任せ、秀忠は娘婿である秀頼の助命を拒否しました。淀君・秀頼は最後に立てこもった蔵で自刃します。
☆家康は秀頼を殺す踏ん切りがつかなかったのでしょうか。悪者役を息子に押し付けたのでしょうか。息子の判断を見たかったのでしょうか。息子に決断させることで責任を自覚させようとしたのでしょうか。――最後の想像が当たっているような気がします。家康の先は短い。生きているうちは自分が何とでも出来るけれども、死んでしまえばあとは秀忠が背負うしかないのですから。
〇大坂夏の陣の翌年、家康は死去します。75歳。長年の懸案だった豊臣家を何とかしたあとで、まずは本人的にも一安心したところだったでしょう。家康の死因については鯛の天ぷらに中ったという説が流布してますが、実際は胃癌だろうということです。
家康の生涯のキーポイント。
まずは苦労した幼少期、ですよね。なにしろ人質ですから。自分の存在は何なのかと自問する日々だったに違いない。自分がここにいる意味とか。それは同時に、自領の広さとか経済力とか、隣国との力関係とか、今川家の中のキーパーソンとか、いろいろなことを考える時間だったでしょう。そのことが後の人生に大いに影響している。
成人後、織田信長を同盟相手に選んだこと。この頃家康はまだ若かったのですが、周囲に強力な隣国がひしめく中、織田信長を選んだ。選ぶにあたっては何が決め手だったのか知りたい。結果的には信長は天下人へ上り詰め、それを助けた家康もまた広い領地を手にします。家康の選択は正しかった。
本能寺の変の後の混乱した状況の中で「我こそは」と名乗りを上げる道もあったと思います。その道を塞ぐほど秀吉が素早く行動したことも事実ですが、混乱の中で天下を奪い取ることに賭けるよりは、家康らしくまずは状況を見定めることに徹した。
その後、秀吉が勢力を広げていくのを家康は焦りつつ眺めていたことでしょう。いつ一発逆転に出るべきか?これ以上秀吉の力が強くなったら逆転出来なくなるのではないか?そのタイミングは難しい。
しかし秀吉は日本をほぼ手中に収めた後、朝鮮に矛先を向けました。秀吉が行なうべきは外征ではなくて、自分の死後、幼い秀頼が権力を保持できるシステムを構築することだったと思う。しかし秀吉は外征の道を選びました。この戦は参加した人々に負担を強いた。得るものも少なかった。このことは秀吉の求心力を低下させたでしょう。あまり被害がなかった家康は秀吉の悪手に心ひそかに喜んでいたかもしれません。
そして秀吉の死。じっくりと動けば力のバランスは自分の手に転がり込む可能性が高い。詰将棋のように一手一手。この頃になると王手の道筋は見えていたでしょう。
家康の人生は豊臣家を滅ぼすことで完結します。それまで寿命があったのを幸いと考えたでしょうか。本当は自分が悪者になるのは嫌だったかもしれません。豊臣家を滅ぼそうと考えていたなら、もっと早いうちに手が出せたと思うんですよね。
豊臣方がちょっかい出したのはもう高齢の家康が自ら事態に対応する気力はないだろうと踏んだせいかとも思えます。家康は健康にとても気を付けた人のようです。年上の秀吉が62歳で死なず、家康が75歳まで長生きすることがなかったら、状況はだいぶ違っていたでしょう。天下統一まで一波乱も二波乱もあったかもしれません。
家康の死後、江戸幕府はその権力を260年余も保持し、それなりに平和な時代が続きます。平和といっても全ての人々が楽しく生活出来たという意味ではないのですが、少なくとも昨日も今日も戦ばかりという毎日からは解放された。
現在、家康は東照大権現という神として祀られています。日本全国、東照宮という名の神社は多くの町にあるでしょう。その祭神は徳川家康。人の身から神とされてこれほど広まった例は他にありません。墓所の代表は日光東照宮と久能山東照宮、その他にも高野山、生誕の地に近い岡崎市大樹寺にもお墓があります。
子どもの頃、家康はどっちかというと嫌いでした。狸親父のあだ名もあってどうしても腹黒いイメージがあったし、なんか地味、印象が。あっと言わせるようなことはしていない。着実に着実に、周りを見ながら一歩一歩生きた人。
結局こういう人が最後の勝ち組というのは納得出来る気がします。信長や秀吉のように1人が突出した能力を持っていてもそれは一代限りで終わってしまう。一足飛びに物事を成せる人間ではないと自分でわかっていたからこそ、地道な積み重ねを繰り返したのではないかと。
信長、龍馬、家康。――難しかったなあ。もっと全体的につかんでいると思ったのに、時間的にも空間的にも認識がずれているところが多々あった。シンプルにも語れず、詳しくも語れず中途半端。忸怩たるものを感じる。
歴史の面白さは細部にあると思っているので、シンプルは難しいー。うーんうーん。
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