モネ、ルノワールと印象派の二本柱が来て、その次の柱はセザンヌです。
わたしはセザンヌはどうも……苦手な画家なんですよねー。画風が好きではない。多分、女性性が少ないのが原因だと思います。柔らかみが少ない。簡単にいえばゴツイ。かなり男っぽい絵ですねー。
ポスト印象派とは。
セザンヌを区分けすると、ポスト印象派ということになるらしいです。実はポスト印象派という分け方にそれほど重要な意味はない(と思う)のですが、一応「ポスト印象派」とは何か、さらっと。
「ポスト」というのは「~の後」という意味です。なのでポスト印象派というのは「印象派の後」ということ。印象派を基準として使っているわけですね。印象派の後の画家を時期的な目安としてグループにして、ポスト印象派と名づけてみた、という感じ。
なので、他にポスト印象派と言われる画家はゴッホやゴーギャンなど何人かいますが、相互に特に画風的な共通点はありません。印象派が筆触分割を基本としたのとは違い、共通点はなし。「印象派」をそれぞれがどう咀嚼し、どう発展させたのかということと、時期的な区分を指すためにポスト印象派という名前をつけてます。要は「印象派の後に出てきたのはこんな人たちですよ」というだけの。だけの、というのも語弊がありますが。
なお、このポスト印象派という言葉ですが、少し前までは後期印象派という風に言われていました。……これがすごくわかりにくい。後期印象派があるのなら当然前期印象派があり、印象派を前期と後期にわけたもの、と思うじゃないですか!
実は前期印象派などはない。ならば後期印象派などと名づけるんじゃない!誤解を生みやすい日本語は数々ありますが(が、ぱっと例として思いつく言葉がない)、これもその類。後期印象派という言葉ではなく、ポスト印象派を流通させましょう。
セザンヌの人生、よく知らんけれども……
絵が好きじゃないので、特にセザンヌ関連の本は読んだことはありません。なので、どんな人生を送ったかはほぼ知らない。
もっと知りたいセザンヌ 生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)
かろうじてこれだけ読みました。10年前の出版ということと、書いている人の主観が若干強いかと思った。でもこのシリーズは読みやすくまとまっており、図版も豊富なので、最初の1冊としては大変有益だと思います。
この頃の多くの画家の例にもれず、親にはカタギの道を歩くことを期待されていましたが、結局画家への道を歩むようですね。成り上がり富豪の親の援助+遺産で、絵が売れなくても生活は出来たようですが、親には気を使っていたようです。
元々モデルとして出会ったオルタンスを内縁の妻とする生活を十数年続けたが、結婚したのは父親が亡くなる直前だったそうですから。
セザンヌ30歳の時にオルタンスと出会い、すぐ同棲し、33歳の時には息子も生まれたというのに、39歳までオルタンスと息子の存在を父に隠し続け(39歳でばれた)、それでも結婚したのは父が死去する直前の47歳。うーん。17年。うーん。息子は14歳になってますねえ。
若い頃は攻撃的。
セザンヌは親の援助が受けられたので無理して絵を売る必要がありませんでした。これはモネやルノワールと違った。売れる絵を追求する必要がなく、彼はひたすら自分の絵画を確立しようと努力していました。
反面、王道なアカデミック派の画家への反感が強く、まるで嫌がらせのように――といっていいのかどうかはわかりませんが――サロンに衝撃の自作を出展し続け、落選し続けます。上記の本では「(自作によって)審査員たちを震撼させ、激怒させるためだった」と書かれています。
セザンヌ「略奪」
こういう絵を描いていたら、サロンには受からないでしょうねえ……
セザンヌ「草上の朝食」
タイトル的に、尊敬していたマネの「草上の昼食」に着想を得たのは間違いないところでしょう。でもマネの作画が1963年、セザンヌのこれが1971年頃とのことなので、その8年の間にセザンヌの中でもいろいろな咀嚼があったことと思います。
奇妙な絵。という感想です。こういう絵を落としたサロンの審査員をわたしは責めることが出来ない。わたしは絵に美しさ、快さを求めるけれども、美しいと思えないんだもの。
その後、セザンヌは印象派の画風を取り入れます。
若い頃から印象派の画家とは交流がありましたが、自分の絵に印象派の技法を取り入れるのは1871年に普仏戦争が終わり、疎開からパリに戻った頃からでした。直接的にはピサロと親しくなったせいらしい。面倒見の良いピサロは気難しいセザンヌが心を開いた数少ない人だったでそうです。
セザンヌ「首吊りの家」
初期の代表作。これタイトルが怖い。タイトルが違えば、わたしも好きになれただろうなー……
それまで人物画がほとんどだったセザンヌが、印象派の影響を受けて屋外風景画を描くようになります。こういう絵だったらわたしもきれいだなあと思う。ただ、セザンヌの特徴である形態というか構成がやはりがっつりとしていて線が強く、もっとふんわりした絵を描いた他の印象派の画家たちとはそれこそ一線を画す印象。
故郷で絵を描く。
1870年代は主にパリで活動をしたセザンヌでしたが、1880年代は故郷のエクス=アン=プロヴァンスを拠点に、近場の町の間を行ったり来たりを繰り返すという生活を送ります。内縁の妻と息子を父に認めてもらえなかったので、実家と妻のいる家と、その他にあった自分のアトリエ、さらにはシーズンによってはパリに出て。相当な放浪生活。
でもセザンヌはそういう非定住生活が気に入っていたのではないかという気がします。人によって違うと思う。一つ所に落ち着きたい人と、根を下ろさず動き回りたい人と。
セザンヌ「サント・ヴィクトワール山」
故郷の山であるサント・ヴィクトワール山をセザンヌは何枚も描きました。この山の絵は何枚もある。その中で、わたしはこれが好きかなあ。
このモチーフを得ただけでもエクスに生まれた甲斐がある、とセザンヌは思ったのではないでしょうか。故郷の山は特別。土地の人はその姿に父なるもの、母なるものを見る。石川啄木にとっての岩手山のように。
少年の頃からの親友、小説家のゾラとの絶交事件。
親友のゾラと絶交したというエピソードはセザンヌの人生で必ず言われるもの。1880年代半ばの頃の話。ゾラの書いた小説「作品」がセザンヌをモデルにしたと言われており、画家の零落が結末ということで、それを読んだセザンヌが激高、絶交したと言われていました。
しかし近年、絶交したと言われた時期より後の手紙が見つかっており、絶交はなかったのではという見解もあるそう。
ゾラを読んだことはないけれども画家も作家も、イメージとして人柄が穏やかとはいいかねる人のようなので、その2人のケンカはあり得るかもなーとなんとなく思っていた。
しかし少年時代からずっと助け合って(セザンヌがゾラを助けたかどうかは不明だが、セザンヌはゾラに経済的援助をしてもらっていた時があるらしい)きた人と、絶交までするとは相当……セザンヌは書かれていることがショックだったのかなあと思ったり。本当は絶交はなかったという意見の方がうれしいです。47歳にもなって友を失うのは辛い。
リンゴのセザンヌ。
セザンヌは人物画も多かったですが、静物画もまた多く描きました。構成の画家であるセザンヌにとって、自分が満足できるまで構図を追求出来る静物画というジャンルは便利だったようです。人物画だと、モデルとなった人物がポーズをとることにくたびれ果て、たいてい肘つきポーズになってしまう――そんなことも言われています。
セザンヌ「リンゴとオレンジのある静物」
リンゴといえばこの絵でしょうか。丸々としたリンゴ(とオレンジ)がコロコロと可愛らしく並んでいます。色彩に温かみもあって、可愛いといえば言えなくもない絵。
しかしこの絵にも一筋縄ではいかないところが。セザンヌの多くの絵がそうですが、整然とした三次元上に物体が存在しないのです。この絵でいえば、たとえば背景のソファと白い布の関係。ソファはだいたい見た通りに描かれている気がしますが、その上に置かれた白布は通常の椅子の上に置かれた布というより、はるかに平面的です。奥行きを感じさせない。
その上に載ったリンゴは不安定。白い皿に載った赤いリンゴたちは今にも零れ落ちそう。位置的には一番奥のコンポートは形が歪み、白い布との位置関係が微妙です。中央のリンゴはここでとどまっていられるでしょうか。
この違和感はセザンヌが、同時にいろいろな方向から見た物体を一枚の絵に盛り込んだから――と言われています。ソファを斜め45度から見たとすれば、白布はもっと天頂に近い位置から見下ろす形。リンゴの白い皿も45度よりは上から見下ろしている。多視点。
この多視点の技法は、のちにピカソの「正面の顔と横顔を同一画面に描く」というところで完結します。わたしはよく知らないけど、セザンヌが後進の画家たちに与えた影響は大きいらしい。
セザンヌ、畢生の一枚。
セザンヌの畢生の一枚は多分これ。
セザンヌ「大水浴図」
正直、わたしにはこの絵の良さはわかりません。この大三角形の構図が特徴的なのはわかる。が、色彩的にも造型的にも、わたしの目を楽しませないんだなあ……。
構成は、美というよりも頭で感じる面白さという気がしますね。それもまた絵画の魅力だろうけど。
セザンヌは水浴図というタイトルの絵をかなりたくさん描いています。女性だけではなく、男性水浴図もあります。群像が、本人にとっては魅力的なテーマだったのだろう。
セザンヌは絵が下手?
面白く見ているyoutubeに山田五郎さんのチャンネルがあります。こないだ、セザンヌを取り上げていました。
これはこれで面白いのですが、わたしはセザンヌが下手だとはあまり思いません。わたしがセザンヌを好きになれないのは下手だからだ!と思えれば自分としてもすっきりするんですけどね。
たしかにデッサン力はさほどなかったと思う。でも「サン・ヴィクトワール山」を描いたような人が下手だとは思えない。セザンヌの絵は、好きにはなれないけれど、どっしりとした力を感じるんですよ。全部が全部ではないけれども。
その他、ちょっとあげておきたい絵。
人物画をあげてませんでしたが、セザンヌの描く人物画はこんな感じ。
セザンヌ「肘掛け椅子に座るヴィクトール・ショケ」
画業の前半の絵。この頃だと、空間把握が出来ずに椅子と人物の位置関係がおかしいのか、計算の上でずらして描いているのか、難しいところですねー。わたしはこの頃は技術的に描けなかったのだと思いますが。
セザンヌはモデルの人物の内面を表現しようとか、そういう方向を目指してなかったようです。同じ人をルノワールが描くとこうなります。
ルノワール「ヴィクトール・ショケの肖像」
この違いよ……。
ショケは印象派の収集家の一人。売れなかった頃からルノワールやセザンヌの作品を買い上げて支え、積極的に宣伝もしたありがたい人物。彼のコレクションは死後に散逸し、残念なことに多くがアメリカに渡ったそうです。今だったらルーブルなどが手放しはしないだろうが。当時はヨーロッパでは印象派がそれほどは評価されてなかったんですね。
セザンヌ「赤いチョッキの少年」
これは右腕が長いねーっ。セザンヌは人物の腕が長い傾向があるようですが、この少年は本当に長い。そして左手も実は長い。頭を支える手も、頭の陰に隠れているのをいいことに、適当に描いている気がする。まあこの手の長さに画家の構成の意図があるとしても、デッサン力が有り余るほどあったとは言えなかった気がする。
セザンヌ「赤いチョッキの少年(習作)」
これは水彩画。実はセザンヌの水彩画はかなり魅力的な気がしています……。かわいいんですよね。油彩画と比べるせいかもしれませんが。色もきれいだし。美術館で、セザンヌの水彩画をたくさん見られる展覧会をやって欲しい。お安く借りられるのではないでしょうか。それとも水彩画は取り扱いが油彩画よりも難しくて大変なのだろうか。
多作なセザンヌ。
一説には生涯で油彩画954点、水彩画645点も描いたそうです、セザンヌは。この数には異論もあることでしょうが、油彩画の900点は動かないでしょう。あのこってりした塗り具合で900枚以上、と聞くと相当な気がしますが、計算すると1年20枚前後。画業が長い人なので、そこまでせわしく描いたわけではなかった。
じっくり構成を考えながら、慎重に描いた画家の姿が想像されます。
若くして亡くなったゴッホは画業およそ10年で、油彩画860点。1年86点とすると4日に1枚。油絵は乾かすのにも時間がかかるそうなので、並行して何枚も描いて描いて描きまくった。そりゃ心も壊れるわ。
というわけで次はゴッホです。ゴッホは好き。
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