amairoの旅日記 西四国・南九州の巻/2019

41.維新ふるさと館。薩摩藩と庄内藩の縁を知る。

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今日は最終日。予備日といえば予備日です。どこに行こうか今一つあてがない。昨晩観光パンフレットを熟読しました。
うーん、そうだなあ。西郷隆盛や大久保利通が生まれた町の辺りを散策して、維新ふるさと館へ行こうかなあ。あと、こないだ月曜日で休館だった西郷南洲顕彰館と。時間があれば、こないだ同じく休館だった薩摩切子工場に行ってもいいかな。

10:00にホテル出。まずは市電に乗って「維新ドラマの道」へ向かいます。

 

維新ドラマの道。

「維新ドラマの道」とは、西郷隆盛・従道誕生地を中心にして、維新ふるさと館やAR技術を使った屋外展示など、散策して楽しめるように作った一帯です。詳しくは鹿児島県のサイトをどうぞ。

AR技術についてもわたしは説明できないので、やっぱりこちらのサイトをどうぞ……

鹿児島中央駅からもすぐですし、はしっこまで来たら市電に乗って帰ることも出来るし、行きやすいエリアですね。むしろ鹿児島に来たら、ここに最初に行った方が歴史的な流れがわかりやすいかも……

わたしは鹿児島中央駅とは逆側の、市電新屋敷の電停から歩き始めました。川沿いの公園を歩くようになります。

 

出来たばかりらしいモニュメント。……だがわたしはARやろうと思ったら上手く出来なかったです(汗)。たしかアプリはダウンロード出来たのですが。

見たら楽しそうなので現地に行かれた方はぜひお試しください。

 

肖像画のトリックアート。

こっちから見ると西郷さんで、

 

逆から見ると大久保利通。

 

 

正面から見るとこの状態。

ちなみに、途中にある彫刻は佐藤忠良「帽子の像」なのですが、

 

 

タイトルはかろうじて読めても、この石にこの彫りでは作者名が読めない。この写真でも読めないくらいですよね?佐藤忠良は「おらがとこの彫刻家」なので、名前をはっきりと彫って欲しい!と思った。……まあ県内で生まれただけですが、それはそれとして。

 

維新ふるさと館。

この日も天気が良く、暑いです。冷房のあるところに早めに避難したい。

 

 

維新ふるさと館は、小さめの施設をイメージして行ったら中が広かったです。小学生くらいの団体がいたから、鹿児島の小学校の遠足の定番なのかもしれない。ここも中身が詰まった博物館で……

今気づいたが、高知にしても鹿児島にしても、維新の偉人関係の博物館が充実しているのは資料が山ほどあるからですね。細かい書簡や衣服や持ち物なんかもいっぱいあるはずだもの。これが戦国時代や鎌倉時代だとそうはいかない。だから展示物が充実してて、……どの博物館も時間がかかるのだ。

公式サイトは冒頭の紹介動画の隆盛くんと利通くんの人形が地味にカワイイよ。いかにも手作り。西郷さんとの押し相撲はわたしもやりましたよ。

この施設の売りは地下ホールでの立体上映でしょう。スクリーンだけではなく、ロボット人形とセットを駆使して「維新への道」というドラマを上映しています。これが23分。もう一つ演目があり、「薩摩スチューデント、西へ」18分。これは多分1865年に薩摩藩が密かに英国へ送り出した留学生たちの物語。

……うわっ。今調べて知ったが、これは元ネタが林望の歴史小説だったのか!林望はそもそもイギリスびいきの大学教授で、初期にはイギリス関連のエッセイを書いていた人。イギリス好きのわたしは昔、何冊も読みました。……が、いつの間にかこんなに手を広げていたのか!小説を書いていたのもびっくりだが、「源氏物語」と「平家物語」の訳も!?
ふむむ。そのうち読みます。10年後くらいに。その前に課題図書がいっぱいあって。閑話休題。

「維新への道」と「薩摩スチューデント、西へ」の上映も面白かったです。この2つに休憩時間をはさむとほぼ1時間。団体が入ると満席ということもあると思われるので、訪れる場合は公式サイトの「ドラマ観覧予約状況」を確認してから行く方がいいかと思います。
地下には他の展示もあるのでそれも見て、1階の展示を見ます。1階は子どもが喜びそうな体験型の展示も多いです。さっきの押し相撲とか。

しかしわたしがここで一番強い印象を受けたのは、薩摩藩と庄内藩との関わりでした。庄内藩というのは山形県、現在の鶴岡市にお城があった藩で領主は酒井氏。庄内藩は幕府側だぞ。なぜ庄内藩と討幕の主役である遠い薩摩藩が繋がる……?

 

薩摩藩と庄内藩の繋がり。

展示物をじっくり読む。

いや、これは知らなかった。……ちょっとこの部分、わたしの拙い要約では正しいところがつかめているかどうか不安なところなんですけどね。
わたしが展示物の説明を読んで理解した限りで言うとですね。

討幕・勤王派の浪人が世の中を騒がせるために江戸で放火・暴行などの扇動行為を行なう。
(陰に薩摩藩の思惑あり)

→幕府は江戸市中取り締まりのため「新徴組」を組織し、江戸の治安回復にあたる。これに庄内藩士も数多く参加した。

→浪士たちが庄内藩屯所に鉄砲を打ち込む事件が起こる。その後薩摩藩邸に逃げ込む。

→庄内藩士を中心とする幕府側が薩摩藩邸を包囲。薩摩藩側に犯人引き渡し要求。

→薩摩側拒否。邸内に討ち入っての激しい戦闘の末、数十名の死者が出る。

→それを受けて徳川慶喜が「討薩の表」を携え京都へ。ここから鳥羽・伏見の戦いが始まる。

→鳥羽・伏見の戦いにて幕府軍敗北。新政府軍はその勢いのまま江戸へ攻め上り、江戸開城。新政府軍はさらに東北地方へ向かい、戊辰戦争へ。

→東北諸藩は会津藩、庄内藩に対する「朝敵」解除を嘆願するも容れられず。反新政府軍という立場で奥羽越列藩同盟結成。

→庄内藩は新政府軍側の秋田藩などとの戦いで連戦連勝。しかし会津落城、諸藩降伏が続き、庄内藩も降伏。

→一般的に降伏後の処置は過酷だったが、庄内藩に対して処置は比較的軽かった。これは西郷隆盛の意向によると言われる。

→庄内藩では西郷隆盛に感謝し、以降敬愛するように。家老の菅実秀、後には旧藩主兄弟も鹿児島を訪れ西郷隆盛の弟子になった。庄内藩士の鹿児島訪問も頻繁にあった。

→西南戦争時は、西郷に呼応して庄内でも反乱が起きるのではないかと明治政府に警戒されたほど、両者の結びつきは強かった。

→西郷亡き後、1887年頃から菅実秀は西郷隆盛言行録作成に着手(後の「南洲翁遺訓」)。「南洲翁遺訓」は庄内藩の若者6人が全国行脚し配布した。1888年から鶴岡にある藩校致道館にて西郷を祀る儀式を行ない始める。

→1969年、鹿児島市・鶴岡市、兄弟都市盟約。1976年、酒田市に南洲神社建立。

以上。これでもけっこう長いですね。

もっとざっくり言うと。

幕末、庄内藩は幕府側、薩摩藩は敵だった。
だが戊辰戦争で庄内藩が敗北すると、西郷隆盛は庄内藩を寛大に扱った。
それを感謝し庄内藩は鹿児島を訪ね、西郷の人となりを知るにつれて尊敬するようになった。
その後、西郷が西南戦争で斃れてからもその敬愛は続き、言行録の発行、配布を通じて西郷の名を高からしめた。

ということですね。さらっと見た限りにおいては「なぜ西郷は庄内藩を寛大に取り扱ったのか」ということには触れられていません。何か具体的な理由があったのか。あるいは庄内藩の奮戦ぶりに感銘を受けたのか。この辺りを知りたいと思う。

それから、庄内藩の西郷への傾倒ぶりも特筆すべきものがあります。お殿さままで弟子になっちゃうとは。西郷の人間的魅力とともに、庄内藩のお殿さまもなかなか大した人だったのかも。いくら維新を経験したとはいえ、封建制度のもとで人になった人ですよ。通常だったら郷士出身の西郷の弟子にとは思わないんじゃないかなあ。

「南洲翁遺訓」を編み始めたのが1887年ですって。
1877年に西郷死去。この時から1889年に大赦があるまで西郷は罪ある者のままでした。「南洲翁遺訓」を大赦の前から編み始めたのも驚きだし、逆に亡くなってから10年経ったというタイミングというのも驚く。亡くなった時にはもちろん多くの人がその死を悼んだろうが、そこから10年経ってなお、というのは並々ならぬ思い入れです。

だいたいここには2時間弱いました。庄内藩と西郷とのこういう関わり合いを今まで全然知らなかった自分にも驚く。うん。勉強になった。

 

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