ヴェネツィアの話をしていたらヴェネツィアがなつかしくなりました。わたしはイタリアの町の中では目下、フィレンツェが一番好きですが、ヴェネツィアにはまた別のロマンがあるんですよね。運河と小道で構成される細分化された町。その隠れた薄暗い角一つ一つに何か物語が潜んでいる気がする。
「ヴェネツィアは迷宮のような町」とはよく言われるところですが、これは比喩でもなんでもなく本当のことです。――迷宮のようなといえば美しいが、平ったくいえばものすごく迷子になりやすい!
わたしはそんなに方向音痴な方ではないと思うのですが、ヴェネツィアは始末が悪い……。知った道じゃないと、たちどころに迷子になります。「たしかこっちに歩けば方向は合っているはず」とか絶対やっちゃだめ!他の町で通じるその方法も、ヴェネツィアでは通用しません。
「この方向」と思って歩くと、細い運河に突き当たります。運河を渡るための橋を探す。橋がちょっと離れたところにある。橋を渡る。その向こうに伸びる道はかすかに曲がり、方向が微妙にずれていく。そしてまた道が途絶える。小さな広場に出る。通じる道が4、5本あり、こっちだろうと選んだ道を歩いて行くと、全然別なところに連れていかれる。
ヴェネツィアで迷子を避けるためには、地図と首っ引きで歩きまわるか、A地点からB地点の道を完全に覚えて、そこからなるべく離れないで行動するか。……まあ今はグーグルマップ一択ですよね。
逆に町をさまよいたいなら――グーグルマップから目を離して、足の向くままに歩いてみる。こんな贅沢な時間の使い方はなかなか出来ません。わたしもまだ出来ていない。その気になればやってみる時間はあったと思うが、ついつい貧乏性で「あそこも行かなきゃ、ここも行かなきゃ」と思って観光地を回り、目的なくさまよい歩くことは出来なかった。5日くらい滞在できればあるいは。
じゃあ、本で。ヴェネツィアの町をさまよいましょう。
ヴェネツィアに5日も滞在するのはなかなか難しいことなので、そのかわりに本でヴェネツィアをさまよいましょう。足の向くまま気の向くまま。迷子になっても本を閉じれば元の場所に戻って来られます。
矢島翠「ヴェネツィア暮らし」
これ、面白かったですねえ。
手元に現物がないので記憶はうろ覚えなのですが、たしかこの人は何ヶ月か何年かヴェネツィアに暮らした人。……タイトルからして間違いないところですが。そんなに長い間じゃなかったはずなので、旅行者の視点と居住者の視点がちょうど良い配合で楽しい。
さらに、そこに加わる詩情が適度。あまりに文学的になってしまうとちょっと苦手意識が出てしまうのですが、日常から乖離しすぎない詩情。心地よさがあります。
これをゆっくり読んで、ヴェネツィアに思いを馳せる。これは愉しい時間です。そしてヴェネツィアを歩いている時にもこの人のことを思い出す。聖マルコ広場に近い大運河沿いを歩いている時、ふと「矢島翠もここを歩いたんだろうな」と思った。そういう思いがその土地と自分の縁を深くする。
残念ながら、これ絶版です……。Amazonの古本で5000円とか1万円とかします。こういうものを絶版にしておくようじゃダメなんじゃないか、平凡社ライブラリーよ。平凡社ライブラリーは装丁が好きなので贔屓。が、単価が高いんですよね。文庫のくせに平気で1000円を超えてくる。
アンリ・ド・レニエ「ヴェネチア風物誌」
わたしの苦手な文学系ながら、それにしては読みやすく、内容も良かった一冊。……だったと思います。現物が手元にないので細かいことは覚えてないけれども(汗)。散文と詩の中間くらいの読み物。
でもわたしは、この人のこれと、「水都幻談」をたまたまそのタイミングで読んで、フィレンツェに行く予定だったのをヴェネツィアに変更してしまったの。だから、心を動かされたのは間違いない。
レニエはヴェネツィアに憧れ、愛した人です。ヴェネツィアへの愛を熱く語る。この人は過去に夢を描く。そのことに親近感を抱く。詩人であるだけに言葉は派手になりがちですが、それも行き過ぎない程度で温かみがある。ある程度読みやすいです。
渡部雄吉ほか「ヴェネツィア案内」
一番基本的な「ヴェネツィアについて」の本。安定と信頼の「とんぼの本」シリーズの一。内容的は完全にガイドブックです。発行は1994年。
1994年発行のガイドブックが役に立つのか。――ただのガイドブックであれば、30年近い昔のものは骨董的な価値しか持たないでしょう。30年前のるるぶに価値を見出す人は一部の古雑誌コレクターしかいない。読めば時代風俗的に面白いだろうけど。
雑誌と本の違いは、雑誌の内容が「情報」であるのに対して、本の内容は「知識」である点だと思っています。情報は鮮度が勝負。早ければ半年一年、長くても数年の後には価値が半減するもの。それに対して知識はおおげさにいえば100年経っても価値を持つもの。
この本も現役――まだ新刊が買えます。内容がガイドブックであることを考えれば、このスパンは驚き。そしてうれしい。
現役である理由は、書いてあることが何十年経っても価値のあるものだからですね。建築や美術、歴史は基本的に変わらない。時代によって見方が変わったり新発見があったりして、細部が変わることはあるかもしれないけれど。
写真も豊富できれい。この本は現地でも大変役に立つと思いますが、現地に行けなくてもこの本で行った気分に浸れる。活字組みは細かくてちょっと古めかしい。ゆっくりと読んで楽しみましょう。
須賀敦子が一文を寄せているのも価値かもしれない。彼女はエッセイの名手で、こういう手軽な本に書くことは珍しい気がする。
須賀敦子にもヴェネツィアをタイトルにしたエッセイがあります。
文学的な香りが高すぎて、わたしの好みには微妙に合わないけれども。でも興味があれば読んでおいて損はない随筆家。
陣内秀信「ヴェネツィア 水上の迷宮都市」
これは都市研究の方向からの明朗な一冊。ヴェネツィアの町の特異性を建築学の方から語ってくれる。
文学には良くも悪くも湿っぽさがまとわりつくのに対して、学問的な方向からのアプローチは乾いてさっぱりしていていいですね。それが悪く出ると無味乾燥と映るのだけれど。
陣内さんはひと頃はけっこうNHKの番組に出ていました。明るい、人当たりのいいおじさんで、町を歩くのが楽しくて楽しくて仕方ない、という雰囲気。自分の研究対象を素直に愛しているのが見えて微笑ましい。
まあこれも古い本ですね。でも1992年の本がまだ現役。えらい。講談社現代新書は他の新書と比較して全体的に内容は薄かったけれども、それが初心者がテーマについて大づかみするのにぴったりでまあまあ好きだった。カバーデザインもこの頃は美しく、それも美点だった。
この美しいカバーデザインが変わった時には愕然としましたね。しかも新デザインのひどさといったらなかった。一体何を考えてあんなデザインにしたのか理解できないレベル。あのカバーデザインでは買う気はおろか、手に取る気にすらならない。現在は若干ましになっているようですが。それでもおおむねキライ。閑話休題。
もう一冊、あります。
迷宮都市ヴェネツィアを歩く―カラー版 (角川oneテーマ21)
塩野七生「海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年」
やはり塩野七生は外せないのであった。
◎塩野七生を読むのならまずは「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」からがおすすめ。塩野七生の「王道歴史コース」。
まあこれですね。確実性、堅実性を目指したヴェネツィアはそれほどドラマティックな歴史は持たなかった。その比較的ドラマティックではない一千年の歴史を、歴史小説で飽きさせずに読ませてくれる。
昔の中公文庫本で上巻500ページ超、下巻600ページ。現在は新潮文庫で全6冊。塩野七生の1作目としては分量的に少々重いですが、読み慣れればすいすい進める本です。
「緋色のヴェネツィア 聖マルコ殺人事件」
緋色のヴェネツィア―聖(サン)マルコ殺人事件 (朝日文芸文庫)
これもおすすめ。塩野七生には珍しく、フィクション色が濃い(主役2人が架空の人物)作品。短くて軽めなので上よりもさらに読みやすい。これは3作シリーズものです。しかし喜んでください。これが1作目ですよ!これだけ読んでも楽しめますよ!
というわけで、ヴェネツィア本のご紹介でした。
わたしの好きなヴェネツィアについての本を並べてみました。これはヴェネツィアを想う、ヴェネツィアに思いを致すための本。ガイドブックやダイレクトな紹介本とは方向が違い、その地を愛す人たちが書いた本です。
読んだらヴェネツィアに浸れると思います!どうぞ、ご一読を。
関連記事