さてこの辺で、みんなが謎に思っている(?)Pとわたしの関係についてご説明しましょう。
Pとわたしの馴れ初めはですね……
はるか20年前にさかのぼる。
わたしはその頃、3ヶ月ほどロンドンに滞在をしていた。ホームステイ。
特に明確な理由も大した目的もなかったが、一度外国で暮らしてみたかったのだ。
当時からイギリスの入国は厳しく(とはいっても9・11後に比べたらまだ大したことないけど)、
“なんとなく”の入国が難しかったことと、若干は何かの役に立つかと思い一応英語学校に通った。
英語学校は半日コースを選択したので、英語力はつかない代わりに、自由時間は毎日たっぷりあった。
美術館と小旅行とミュージカル三昧の日々。
この頃のことを語ればそれはそれで長い話になるが、そっちの話はPと関係ないので省略。
滞在の3ヶ月が終わり、わたしは、せっかくなので最後に旅行をして帰ろうと思った。
滞在中は遠くて行けなかったイギリス北部と、その後大陸に渡ってベルギー、フランス。約1ヶ月。
出来ればヨーロッパ全部回って帰りたかったが、さすがにそんな金はなかった(^^;)。
ロンドンを発ってエディンバラ、湖水地方、そしてハワース。
ハワースは小さい村だが、ブロンテ姉妹が住んでいたことで有名な観光地。
小さい村の、いくつかしかない観光名所の一つに、ブロンテ姉妹の弟のブランウェルが通って飲んだくれていた
「ブラック・ブル」というパブがある。
――このパブというのは日本でいうところのパブとは全然違い、定食屋+ファミレス+居酒屋、という感じだろうか。
街のパブと田舎のパブでは若干雰囲気が違うが、田舎だとランチもティータイムもパブ、
ビールを飲みに来る客は多いけれどもアルコールなしでもまったくOK、
そんなに遅くなければ子供がいても違和感がない。
接待をするお姉ちゃんなどはおらず、基本的にセルフサービス。夜も夜中前には閉まってしまう。
いつでも誰でも、な感じの飲食店です。
まあ行きますね、ここは。ハワースに来た観光客ならほぼ100%。だって見る場所少ないんだもん。
なのでわたしも行った。何しろ飲食店なのでランチだったかお茶だったか……とにかく何かかんか食べて、
「ここがブロンテ姉妹も来たであろうパブか」という感慨も催して。
飲んだくれてる弟のブランウェルを連れ戻しに来たりもしていたかもしれない。
そしてふと目に入る、「CELTIC HEART」という看板の文字。
看板によると、今晩ここで「CELTIC HEART」というグループの音楽会があるそうです。
ほほー、ケルティック・ハートかー。たしかにこの辺りもケルト文化圏だろうなあ。
ってことはアイルランド音楽的な感じだろうなあ。面白そうだし、夜に聴きに来てみましょう。
……と思って、うかうかと出かけて行ったら、ナンデスカ、ケルティック・ハートって!
演奏を始めたのは十代の若いお兄ちゃん。まあ別に年齢はいくつでもいいんだけど、始めたのはごく普通のロック!
うえー。勘弁してくれー。これって看板に偽りありだよー。
まさかケルティック・ハートってバンド名でロックとか!絶対思わない!
周りを見回すと、まさにわたしと同じように何とも言えない顔をしている観光客が多数。
ハワースなどという、文学散歩とウォーキングコースの観光地に来るくらいだから、
けっこう年配の人ばっかりで……正直ロックを聴く客層では全くない!
「ブラック・ブル」は田舎の小さなパブなんです。
バンド演奏のためにそこそこの人が集まっており、当然相席。
演奏の合間に、同じテーブルについた50歳前後であろう男の人が、楽しんでますか、と話しかけて来た。
楽しんでいるとはとても言えない。むしろ驚いている。
しかし日本から来たワタシには、初対面の人に真っ正直に自分の考えを述べる習慣はない。
「……まあinterestingだよね」と返答すると、
男の人の連れの女の人に、「interestingというのは便利な言葉よね」と返され。
うっ、見透かされてる。
その後、大音響の演奏の合間にぽつぽつ会話していき、自分が3ヶ月英語学校に行ったこと、
今は帰国途上の旅の身の上であることなどを述べた。
相手も自分のことを話してくれるんだけど、……何しろ3ヶ月英語学校に行ったくらいでは
そんなにそんなに英語力はつきません。しかもそこは人でガヤガヤしているパブの中。
なかなか話は聞き取れず、相当しばらく会話してから、
しきりに相手がmy sister、my sister、と言っているのに気づき、
「あ、連れの人は奥さんじゃなくて妹さんなのか!」とようやくわかった次第。
男の人はロイといった。妹さんの名前がパット。
演奏終了後「じゃあ手紙書くよ。英語の勉強になるでしょ」と言われアドレスを交換した。
アドレスっていってもメアドじゃありませんよ。実際の住所。
20年前ですから、まだ当時はメールを始めた人がぽつぽつ、程度の頃。
わたしはその後、3週間くらい旅行をしたあと8月に日本に帰った。
帰ったらもうロイから「お帰り!」というハガキが来ていた。
その後、ロイは1ヶ月に2通3通の割合で手紙やハガキをくれた。わたしは英語で返事を書くのが面倒で、
1ヶ月に1度くらいしか返事を出さなかったと思う。
ハワースの小さい絵、シャーロット・ブロンテについての小冊子、
ハワースの後で行った旅行の写真、「JAPANESE FAIRY TALES」という本、
こまごまとしたものを見つけては色々送ってくれた。
ロイの字はとても細かくて几帳面で、見ればすぐわかる。多分日本で言うところの達筆。
クリスマスプレゼントも送られて来て、こちらからもなにがしかのプレゼントを送り、年が明けた頃。
見慣れない筆跡で手紙が届く。パットからだ。パットから手紙を貰うのは初めてだった。
「ブラック・ブル」でも話していたのはほとんどロイだったし。
珍しいなあ、と思いながら開封した。
ロイが亡くなったって。
ハワースで初めて会った時には、もう具合が悪かったらしい。なので一人で旅行が出来なくてパットが付き添っていたとか。
秋から冬にかけては寝込むようになっていた。亡くなってからパットが遺品を整理すると、
「Moに送ること」とメモがついた小さいものが出て来て……
「亡くなったことをお知らせするとともに、それを一緒に送ります」と書いてあった。
バラの模様の靴下と、花柄の財布だった。靴下は実際履いたし、財布もしっかり使ったので
どっちももうボロボロだけど、物としてはまだ手元にある。
――以来20年、今度はパットとやりとりが続いているわけです。
パットにとっては亡くなったお兄さんが縁を作ったわたしを大事に思ってくれる気持ちがあっただろう。
せっかく英語を勉強している(と一応は言っていた)日本人を応援してくれる気持ちもあっただろう。
さすが兄妹だというか、人の世話に尽力するところは兄妹よく似ている。
ロイも人の世話をよくした人だったという。
お互いに時々言うけどね。
たまたま旅先で出会って、会話をしたのは正味でいえば10分15分くらいではないか。
「それが20年の交友の始まりになるなんて」ねえ。