正直いって、明治維新をしっかりつかもうとするとかなりややこしい。それはなぜかというと、
関係者の人数・団体数が膨大なこと。
関係者の立場が複雑なこと。
時間の経過にしたがって、人物・団体の意見や立場が変わっていくこと。
この辺りが理由かと思います。
以下は何がややこしいか、という話であって、シンプルではないので読み飛ばしてください。
明治維新はひたすらにややこしい。
まあ日本史上最大の革命ですから、関係者の人数が多いのはしょうがないし、人数が多ければ立場がいろいろになるのは仕方がない。
そして明治維新はいろんな革命の中でも対立項目がおそらく群を抜いて多い――たとえば尊王VS倒幕とか、開国VS攘夷とか。単に敵か味方か、利益を共にするかしないか、というだけでははかれない。
登場人物も(身分的な)上は天皇、将軍から下は下級武士、農民まで。ここまで雑多な階層の人々が主要な役割を演じる歴史上の事件はめったにないのではないでしょうか。他の国のいろんな革命をよく知っているわけではないので主に想像ですが。
そして明治維新を革命というべきかは意見が分かれる。歴史用語として「明治維新」といわれ、「明治革命」とは言わない。……ということまでいうとシンプルからはさらに外れますね。
明治維新関係でよく用語として出て来るのが「尊皇攘夷」。天皇を尊び(=幕府を無力化し)、外国を打ち払うという姿勢のことですが、明治維新の最終的な勝者である薩長土肥及び朝廷も、途中で「攘夷」の姿勢は失っているんですよね。
最初は「外国人なんて追っ払ってしまえ!」と言っていた人が大勢いたのですが、海外の実態が耳に入ってくるに従い、あるいは直接戦火を交えたことで、「あかん……外国にはかなわん」という風に意見が変わった。
なので、最初は尊皇攘夷と威勢よく騒いで幕府を突き上げていた人々がたくさんいたはずなのに、幕府が倒れて新政府になるとすぐ、攘夷はどこへやら、外国人を海外から多数招いて教えを乞うという形になった。
当初の予定通りだったら、新政府になった途端再び鎖国の流れになってもいいようなものですが。やはり結果的に開国は時代の流れだったのでしょう。当時、日米和親条約締結で散々責められた幕府老中の堀田正睦はいい面の皮。
幕府を倒すことを主目的に動く者、
天皇の権威を復活させようともくろむ者。
朝廷と幕府を穏やかに両立させようとする者。
新しい政治体制を作って自分が(あるいは自分の藩が)より力を得ようとする者。
260年続き、閉塞感が立ち込める幕府の世を刷新しようと理想を追う人々、
しがない身分からひとかどの者になろうと騒がしくなり始めた世に出て行く人々。
それらが入り乱れて、幕末から明治にかけての世は何もかもがごった煮になった大鍋のようなものでした。
人気の一人が坂本龍馬。
そんな鍋のなかで、他とは一味違って爽やかに見える具材(?)が坂本龍馬。
明治維新というと名前が挙がる主要登場人物は軽く20人、下手すると30人くらいになります。明治維新を政治闘争と内戦と位置付けるなら、坂本龍馬はそういったところから若干離れている。本筋ではなく脇筋で面白く動き回る自由自在な駒。そういった軽やかな足さばきが歴史上の人物として人気がある理由かなと思います。
ただし坂本龍馬がいなければ明治維新の形は今とは違っていた。
そして坂本龍馬が生き続けていたら、明治維新後の日本はまた違っていたかもしれない。
坂本龍馬の主なキーワード、4つ。
〇海援隊の創設
海援隊とは、洋式軍艦の操船技術提供を柱とし、その他に運輸、貿易、教育、投機などを行なう利益追求団体です。近代の株式会社・商社に似てる。隊とついているから兵隊かと思いますが、そういうわけではありません。
画期的なのは、海援隊が幕府直属あるいは藩直属の組織ではなかったこと。
海援隊の根っこをたどると神戸海軍操練所というものでした。これは幕臣であった勝海舟が設立した幕府のための操船技術者養成学校。しかしそもそも勝海舟が幕府オンリーの考え方の人ではなかったこと、所属者がいろいろな藩の脱藩者なども含んだものであったことで、幕府が設立した幕府のための海軍学校になるべきところ、実際は倒幕主義者も多く含む意味不明な団体になってしまいます。勝海舟はいろいろあって責任者をクビになり、神戸海軍操練所は閉鎖されます。
その所属者たちが身に着けた操船技術を売りにして設立した団体が亀山社中。これは龍馬のアイディアだったと言われます。その亀山社中が、その後いろいろあって海援隊という団体になりました。ここは諸説あるそうですが。亀山社中がそのまままるっと海援隊になったかは疑問があるとのこと。
海援隊は一応土佐藩付属の団体とはされつつ、薩摩藩からも一人当たりの給料が入っていたそうです。ここらへんの立場は一体どうなっていたのか不思議。立場の微妙さがいろいろ想像させて面白い。
この海援隊が次の薩長同盟で重要な役割を果たします。
〇薩長同盟の成立
薩摩と長州が手を結ぶなんて、ちょっと前なら考えられなかったんですよ。何しろ1864年の長州征伐で、薩摩藩は朝廷に命じられて長州に攻め入っているんですから。不本意ながら朝敵にされてしまった長州藩では(事情がわかっていたごく一部の人以外にとって)薩摩藩は明確に敵だったはず。
そんな関係の両者が1866年には秘密裡に同盟を結びます。これがあったから結果的に明治維新があったといっても過言ではない。そしてその薩長同盟を成立させたのが坂本龍馬。……というか海援隊としての坂本龍馬。
今までの経緯を考えれば藩の面子がいろいろあるところ、話しあいが決裂しそうになったのを、うまいところに海援隊という薩摩寄りなのか土佐寄りなのか不明な鵺的性格の団体があり、だからこそ同盟まで導けたという側面はあると思う。薩摩人だけでも長州人だけでも無理だったでしょう。第三者的立場、それも藩を背負わない人であってこそという気がする。
龍馬の人柄もまた強みの一つであったと思います。彼はおそらく人たらしな一面もあって、「坂本のいうことなら……」と思わせたのではないしょうか。それには商家の家系で末っ子として育ったことが大きかったのではないかと思う。功利的な考え方も出来れば、それだけではダメなこともまたわかっている。交渉ごとは双方に利がないと成立せず、利だけがあってもまた成立しない。交渉人として大きな存在だったと思います。
〇船中八策(=新政府要綱八策)
一般的に「船中八策」として知られる、坂本龍馬が提案した新しい政治体制の総論的な8つの素案。これはフィクションの可能性が高いようなんですね。使われている用語が時代に合わないことと原本が見つかっていないこと、内容に違いがある資料が散見されることなどからそう言われているようです。
ただ、その半年後に書かれた「新政府綱領八策」は自筆本が残っていて、確実に龍馬が書いたものだと言われているらしい。船中八策よりは内容が簡略ですが、「世の中のその先」を大政奉還前のタイミングで考えていた。ここのところは面白いと思います。
◇ ◇ ◇
一、実力がある人を顧問に据える。
二、藩侯のうち有為な人材を朝廷で高い地位につけ、不要な官職は廃する。
三、外交について国としての意見をまとめる。
四、法律を整備し、憲法を定める。それに基づいて人民を治める。
五、二つの議会を持つ。
六、海軍と陸軍を作る。
七、皇居警備の兵士を設置する。
八、外国との間で金や銀のレートを公平に取り決める。
以上のことを物の分かった何人かで相談した上で藩侯の合意を得ること。
誰かを盟主に据えて朝廷に報告し、人民にも告知すること。
貴族でも何でも皆が決めたことに反対する者に対しては武力行使も辞さず。
◇ ◇ ◇
我流でこのように口語に訳してみましたが、あたらずといえども遠からずの内容にはなっていると思います。そこまで斬新なことを言っているわけではないが、それでも人々は身分によらず登用されるべきこと、憲法、外交、議会政治、海軍と陸軍、などが新しいことかな。他国のやり方も参考にして、いろいろ仲間たちと語り合いながらアイディアをつめていったのでしょう。
盟主を「誰にするか」は歴史上の謎扱いされることも増えて来たのですが、この時点で龍馬が誰か一人に決めていたというのはないと思います。状況を乗り切れる人なら誰でも良かったんじゃないかな。最後に武力行使について言及しているのはわたしとしては意外だが、逆にこれが最後に来たのはおまけというか、まあこれも言っとかないと、程度の気もするし。
〇しかし、暗殺
龍馬も推進した大政奉還も成ったおよそ1か月後。龍馬は隠れ家としていた近江屋で、敵に乱入され斬殺されてしまいます。
決して地位は高くないけれど、人々を繋げ、数々の仕掛けを形成してきた龍馬に対する幕府側からの敵視は強かった。常に暗殺の危険があることは本人にもわかっていたことでした。
友人たちはもっと安全な場所として薩摩藩か土佐藩の藩邸に住むべきではないかとたびたび忠告したようです。しかし安全な分いちいち門番を通り深夜の出入りも不自由な藩邸は、龍馬にとって活動に差し支える場所だったらしく、その忠告を退けています。
暗殺された時、龍馬は風邪をひいていて、逃げ道があって安全度が高いが底冷えのする近江屋の土蔵から、一時的に母屋の二階に移って来ていたそうです。そこへ仲間の中岡慎太郎が訪ねて来、龍馬は腹が減ったと従僕を軍鶏の肉を買いに出し、その帰りを待っていた状態だったそう。
もしこの時風邪をひいておらず、龍馬の体力が万全であれば。
風邪をひいておらず母屋の二階へ移ることがなければ。
買い出しから帰る人を待っている状態でなければ。
この三点が揃わなければ、もしかしたら暗殺は不成功だった可能性もあると思うのです。龍馬は剣に自信がありましたし、拳銃も使えました。大きな音がした時、何もなければ人の耳はそれを異常だと捉えますが、帰って来る人がいる場合、その音だと思って警戒しない――それはあり得ると思います。10秒、20秒の間異常に気付かなかったこと。それが致命的だった。
坂本龍馬のその他の事跡。
〇勝海舟との関わり
若い頃の龍馬は、剣術の強い、地方の藩の下級武士の若者にすぎませんでした。不安定な世情を憂い、無茶をすることも辞さない。そんな命知らずの若者は当時山のようにいたでしょう。
龍馬の生涯が変わったのはやはり勝海舟との出会いが大きかったのかなという気がします。具体的にどの程度交流があったのかは知らないのですが、龍馬は姉宛ての手紙で「勝麟太郎大先生に可愛がられております。エヘン」という手紙を出しています。勝が龍馬の脱藩の罪が赦免されるようにとりなしているなど、おそらくは親しいといって良い関係。
勝は、頭が良く全体を把握することが出来た人だったと思う。しかし多分根本的には無精だった。龍馬は勝の話を聞いて、高所に立った全体的な目配りが出来るようになったのではないでしょうか。行動力があってマメ、人付き合いがいい龍馬はその長所を存分に活かせる「頭」も手に入れたのです。
〇二度の脱藩
勝海舟と出会う前、龍馬は最初の脱藩をしています。
脱藩というのは仕官していた藩を抜けることをいいます。身分制度がガチガチに固まっていたこの当時は脱藩なんてそれはそれはとんでもないことで、たとえていえば……密出国。いや、それよりも重い罪だったかもしれません。何しろ一族郎党、下手すると死罪もあり得るという行為。
そのため家を継いでいた二十二歳年上の長兄は心配し、龍馬が逃げないように監視していたといいます。まあそりゃそうですよね、弟が逃げたことでお家断絶、自分は切腹なんていうのは嫌ですから。
しかし結局のところ、龍馬は逃げてしまいます。ここに龍馬の若さゆえのなりふりかまわない無鉄砲を見るべきなのか、脱藩したからといって一族郎党皆殺しはないと踏んだせいなのか。この頃土佐藩では脱藩が――流行っていたといいますか、かなり多くの人々が脱藩し倒幕運動に走っていたのはたしかで、そこまで厳しい処分はされないと見切っていた可能性もあります。
その後いろいろあって龍馬は勝海舟の門人となり、脱藩から一年後勝から土佐藩主にとりなしが入り、勝の脱藩は許されます。本人よりも郷里の人々はほっとしたでしょうね。
しかし赦免された翌年にはまた脱藩するんですねえ、この人は。まあこの時の脱藩は仕方ないかなという気もする。龍馬は勝の下で能力を発揮してすごく楽しかった時期だろうし、そんな龍馬に土佐藩が急に「国に帰ってこい」といっても「やなこった」で終わりだろうなあ。まあそんな簡単なことではなかったかもしれないが。
〇寺田屋事件
薩長同盟が締結された翌日、龍馬は襲撃を受け命からがら逃げだします。この時も相当危ない状況だったらしい。結果として拳銃で反撃、脱出は成功しますが指に深手を負います。
ただしこの段階では「龍馬だから」襲撃されたのではなく、幕府に害をなす浪人の根城としての伏見の寺田屋、ちょうどそこに龍馬が泊まっていたということらしいです。
襲撃したのは伏見奉行の配下。これを新選組によるものとする説は以前には多かったようですが、近江屋事件にしてもこの寺田屋事件にしても新選組は関わってないんですよね。襲撃といえば新選組というイメージがあるのかもしれません。
龍馬のあれこれ。
〇土佐藩(高知県)の郷士として生まれました。郷士とは(地域によって細かい違いはあるようですが)基本的に下級武士。坂本さんの家は元々は豪商の分家だったため、侍としての身分は低かったけれども生活は豊かだったそう。
〇小さい頃は寝ションベンタレの弱虫だったそうです。20歳以上歳の離れた兄がいて、実質父のような存在でした。のちに龍馬が脱藩してあちこちに日本をあちこち走り回って活躍しますが、それもこの頼もしい兄の存在があってこそ、後顧の憂いなく出来たことだったかもしれません。
〇4歳上に乙女さんというお姉さんがいました。身長175センチ、体重113キロの女丈夫だったと伝わっています。けっこうな体格ですね。女ながら薙刀や剣術に秀で、琴三味線、書道、和歌などもたしなむ相当な才女だったらしいです。龍馬に剣術を教えたのも乙女さんだったとか。
〇龍馬は筆まめ。高知の坂本龍馬龍馬記念館で何通かの手紙を見ましたが、実家への手紙はユーモアにあふれた面白いものでした。可愛がられて育ったのだろうなあ。姪宛ての手紙も残っており、姪をからかうような内容のもの。女に優しい男だった気がする。個人的な意見ですが出来る女を見て育った男は女に優しい。
〇龍馬の妻はおりょうさんといいました。龍馬たち土佐藩士の根城になっていた宿でお母さんが下働きをしていたのが縁。龍馬によるとおりょうさんは「まことにおもしろき女」だそうで、鉄火で行動力があり、寺田屋事件では反射神経を活かして刺客の存在を知らせ、龍馬の危機を救ったそうです。この時に負った傷の療養に薩摩の温泉へと二人で旅行し、これが日本最初のハネムーンだったとか。
坂本龍馬は「交渉人」。
彼の本質は人と人を繋ぐ交渉人だったと思います。柔軟な姿勢を持つ人。この人がいなければ薩長同盟がもしかしたらなかったかもしれない。そうであれば明治維新の形は相当に変わっていたことでしょう。
坂本龍馬があの時期に殺されることがなかったら、と時々考えます。とりわけ戊辰戦争と西南戦争において。
戊辰戦争は――坂本龍馬の人脈のなかに関係者が少なかったと思うので、どうにもならなかったかもしれないのですが(武力行使が絶対ナシだとは思ってなかったようですし)、西南戦争については――もし龍馬が生きていたら存在しない未来があったかもしれないなと。
龍馬がいたら、大久保と西郷の仲を修復するために懸命に飛び回ったことでしょう。大久保は功利的に物を考えられた人、西郷は義に殉じた人――妥協点を見出すことは根本的には難しかったかもしれませんが、戦争という形は避けられたかもしれない。そんなことを想像します。
もしかしたら征韓論を唱える西郷に向かって、弟子たちをみんな引き連れて貿易活動をしよう、と誘う龍馬がいたかもしれません。明治維新で梯子を外されて苦しんだのは主に下級武士たちでしたから、彼らに生業と生きがいを提供出来たら西南戦争という結末はなかったかもしれないですね。海援隊を組織していた龍馬ならば説得力もあったでしょう。
龍馬は死後30年近くたって朝廷から正四位の位階を贈られています。本人はおそらく位階のことなど気にしなかったでしょうが、年下だった伊藤博文などが従一位だと聞けば「伊藤より下か」と笑うのではないでしょうか。「でも西郷さんが正三位なら俺あたりは四位が妥当か」と。
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