暗い空間に窓から差し込む白い光。白い光と黒い闇は、決して混ざりあうことなく独立して存在し、目に鋭く切り込んで来る。堅牢に作られた修道院の食堂の厚い壁。牢獄のような佇まい。強い光と闇のコントラストを凝視する。見えた気がしたのは、何百年も前にここにいた、灰色の影のように歩きまわる修道士たちの姿。
はるかな過去、モン・サン・ミシェルには。
陸から孤絶した島には、世界のあちこちから神を求める人々が集まった。世界のどこにでも神はいる。それを知りつつも、人の肉の弱さでは、華やかな街や平和な田園で純粋に神を求め続けることが出来なかったのだろう。日々の生活から孤立した場所で祈りの生活を送るために、修道士たちはその島を目指した。誰もが。思いつめた目で。
モン・サン・ミシェルを取り巻く海の干満は激しい。満ちている時、そこは島だが、引き潮の時は砂の上の小さな丘になる。旅の果て、目の前に神の国の入口を見た彼らは、一刻も早くそこへ辿りつこうと疲れた足を動かし続けた。潮が満ちる、今から渡っても間に合わない、と口々に止める漁師たちの声を振り切って。――波に呑まれて、命を落とした者は数えきれない。彼らは死の間際に天国の門を見ただろうか。
島の修道院に流れるのは、静謐で平穏な灰色の時間。昨日と同じ今日、今日と同じ明日。時折新しい顔ぶれが増え、いつの間にか見えなくなる。出会いも別れもうたかたのもの。彼らは神のみを求めてここにいるのだから。
祈りの他の時間は全て奉仕に捧げられる。坂の急な狭い島、平らな土地はわずかしかない。狭い裏庭に作られた菜園で黙々と働く修道士。その武骨な手がささやかに実った豆の莢をちぎり取る。
時々は立ちあがって腰を伸ばし、遠くの景色を眺めただろう。風の穏やかな日。潮が引き、どこまでも続く砂が遠くまで広がる。地平線は白く霞んで、砂の色の地面と淡い水色の空が交じりあって溶ける。
天にも地にもただ一人。修道士はしばし地平線を見つめて思いにふける。耳を澄ませても何の音も聞こえない。島の修道士は群れない。ただ沈黙のうちに働き、朝と夜には神と対話し、夢も見ずに眠ることを最上の生活としているから。時折は目の端に黒い修道服が通り過ぎていくのが映る。だが、それはすぐに石造りの建物の後ろに隠れ、実在の人間なのか、過去の亡霊なのか確かめる術はなくなる。島は亡霊と共にある。
島の生活で何より恐ろしいのは嵐の晩。風が唸る声、叩きつけるような波の音。修道院の厚い壁がゆらぐことはないが、壁よりも弱い人の心は激しい風に折れそうになる。ノアの方舟の大洪水もこんな嵐から始まったのではないか。恐れを抱いた修道士はそれぞれそっと十字を切る。口に祈りの言葉を呟く。夜は長く、孤独に過ぎる。天にも地にもただ一人。孤絶した島で、孤独な修道士たちは夜明けまでの数時間を耐える。
いつの間にか落ちた不安定な眠りから覚めると、朝の空気が薄く辺りを漂っている。嵐は去ったのだ。静かで平和な朝が帰って来た。思わず零れる神への感謝の言葉。窓から見える風景はいつもと変わらぬ海。真夜中の荒れ狂う波の姿が嘘のよう。
安堵の吐息をつきながら、修道士は日々の仕事へと戻る。祈りと。奉仕と。沈黙と。だが彼らは、その沈黙のうちに自分の心を覗き込む。
――嵐を恐れる心に神は遠いのか。
――神の恩寵を信じる身で、嵐を恐れるのか。
――自身を神にゆだねていれば、恐れはないはずではないか。
豆を摘む手がいつの間にか止まる。狼狽が目を塞ぎ耳を遮る。呆然と立ち尽くす彼の視線の先には、地平線に溶ける空。
嵐の夜は何度も訪れる。同じ数だけまた平和な朝が蘇り、その朝、修道士はまた遠くを見つめる。空に答えはない。風景はどんな予兆も示そうとはしない。ただ問う、お前は心の全てで神を信じているのかと。一点の曇りのない信頼を神におき、全てを委ねているのかと。
ある夕暮れ。潮の引いた砂の上を、小さな黒い影が行く。島を背にして――岸に向かって。影は背を丸め、出来るならば夕暮れに身を溶け込ませたい。そう願っているように見える。手に持ったわずかな荷物が重い。心の重さと同じくらいに。
彼がここからどこへ行くのか誰も知らない。華やかな街へと戻り、神と共にある生活と別れてただ人として生きていくのか。それとももっと遠い、誰も住む人のない荒地の果てで、たった一人、神との対話を続けるのか。
小さな黒い影が行く。神の国の入口を後にして。
やがて、その姿は夕暮れに消える。