チェコ・9月9日

36.反省の弁。

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反省というか総括。いや、やっぱり反省かな。
以下は他人様には全く関係のないタワゴトです。

今回の旅行の行先は、様々な理由が重なってチェコになった。
順不同で挙げれば、

今まで行ったことのない、知らない土地へ行きたかった。
暑い季節なので、ある程度涼しさが見込めるところ。
黄金小路に惹かれた。
プラハは建物が美しいらしいし……。
チェスキー・クルムロフもいつかは行ってみたいところだった。

で、チェコ。と。

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だが実際にプラハの町を歩き始めて、しつこい違和感に悩まされる。
何が違和感かというと、

頭の中が、全部ブログ用の文章になること。

たとえば初めてトラムに乗る時でも、「乗り場で待っているのは勤め人や学生といった感じの人々。
犬が意外に多い。この辺りは少しゴミゴミしていて、落書きがところどころに見られる。」
そのままブログに載せるような文章として頭に浮かんでくるの。
むしろその形でしか出てこない。

いや、これはマズイ。笑いごとではありませんよ。
第一に、この状態は、何よりもまず本人がうざったい。早い話、一日中頭の中でレポートを
続けながら街を歩いているようなもんだから、自分で自分が鼻について仕方がない。

第二に、本ブログは旅行記なので、5W1Hというか、“いつどこでわたしがどうした”という
内容が主軸となります。――旅行中の頭の中が、これだけでいいのだろうか。
ブログに書く内容を考えてるだけじゃ、一人で旅をしている意味がないだろうが。
もっと思考を自由にしないと、せっかく空を飛んでここまで来た意味が……

……わたしが一番オソレているのは、加齢による感受性の枯渇です。
(とは大層な言い方ですが)
年を重ねるに従ってやはり人間、精神が鈍麻してくる部分がある。
鈍麻するのは悪いことばかりじゃなくて、それで生きるのが楽になったりもするから
むしろ自分の現在程度の鈍さを歓迎はしているんだけれども、
しかし“見たい”と思う時にはちゃんと見たい。
物事を見て、そこから何も受け取れなかったら、見ることになんの意味もなくなってしまうよ。

今回、頭がブログ文章になってしまうのは、何も受け取れていない証拠ではないのかと思う。
それがとても怖い。
思惟がちゃんと流れていれば、もっと別なことを考えられる・感じられるはずなのに――

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枯渇していると考えるのがコワイので、わたしはその原因を別なところに探す。

これは、チェコへの“愛着”の少なさによるのではないか、と。

わたしは旅行前には相当、関連本を読んで下調べをするほう。
そういうスタイルにはおそらく賛否両論がある。

――下調べをすることで、現地ではただその確認に堕してしまう可能性もある。
――むしろ、まっさらな白の状態で出会うことで、幸福な出会いになる場合もある。

この辺は自分自身でも正解は出ていない。
正解というより、どちらも一長一短があるということなんだろうな。

――知っていればこそ、より深く味わえる、ということもあるだろうし。
――何も知らないと、目の前にあるものにも気づかないかもしれない。

でもいくら本を何十冊と読んでも、それが即、愛着とはなり得ない。
知識は愛を増す。(だろう、多分。)――基本的にはそうであっても、知識から愛への変容は、
ええと、ブドウがワインになる程度の手間と時間はかかるはず。

わたしの興味は主に歴史分野と美術分野なので、そういう内容の本を何冊も読んだ。
その結果、日本の歴史でたとえれば、

聖徳太子が法隆寺を作り、
源頼朝が鎌倉幕府を作り、
豊臣秀吉が一瞬天下統一を果たし、
その後、徳川家康が子々孫々300年続く江戸幕府を開いた。

――という程度の大雑把な内容を、チェコの歴史においてつかんだ。
この位でもある程度は楽しめるだろう、付け焼刃ながら全く知識が皆無ではないんだから。
そう思ったが、それは大変甘かったのだと思う。
この程度の知識では愛着は育たない。愛着が、その場所と自分を結びつけるのに。

法隆寺に行って幸せなのは、聖徳太子がどういう人間だったかを知っているから。
この場所を、彼がどんな眼をして見ていたのか想像できるから。

鎌倉を歩けば頼朝の肖像が浮かんで来る。整った顔立ち。涼しげな目元。
しかし彼はその冷静さを保ったままで、兄弟たちを次々に殺していった。
鶴岡八幡宮の境内を一人歩く時、彼は自分でも気づかぬうちに、眉間に皺をよせていただろう。
風が鳴る音に一瞬何かを思い出し、弾かれたように顔を上げる時もあっただろう。

そんなことを思えるのが旅の幸せだというのに、
わたしはチェコについて、そこまで思える材料を持っていない。
チェコの歴史上一番有名な人物はカレル4世だと思うが、カレル4世がカレル橋を渡っている
姿など想像出来ない。(というか、渡っている姿を想像しようとすらしない)
どんな顔をしていたのか?名君だったらしいが、温厚な名君か?謹厳な名君か?
何が喜びで悲しみだったのか。カレル4世の人間としての顔が、わたしには浮かんでこない。

――ああ、この程度じゃダメなんだなあ。
わたしにとって、この町はただの場所でしかないんだ。きれいだ、という感想しか抱けない場所。
愛着。思い入れ。そういうものなしに歩き回るということは、
醤油無しで食べる寿司と同じ程度に味気ない。

旅行は楽しかった。
だが、いつもと勝手が違う、少々不本意な旅であったことも事実だったのだ。

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そこで、だ。

もし上記の仮説が正しいならば、愛着のある国なら頭の中がブログにならずに
歩きまわれるはずだよね?
というわけで、次回行く場所は、わが愛の……になる予定です。
ここでも思惟が不自由なままなら、原因は愛着云々という話ではない。
感受性の枯渇か。なんらかの対症療法が必要になると思われる。

でも、……実は単にブログの呪縛だったとしたら、どーしよーかなー。
前回のギリシャの後からブログを始めて、今回のチェコ。このタイミングだし。
ブログを続けている限り、ずっとブログ頭でいるとしたら始末が悪い。
だからといって、やめるという選択肢は本人的に選べないだろうしなー。
まあ、次回行ってみてからですね。次回は事前にもう少しココロガマエをしてから行こう……。

以上のようなことを、わたしはオオマジメに考えました。

ちなみに、チェコは今回でマーキングが済んだので(とは表現的にナンでしょうか)、
再び行くことがあったら、多分もっとゆったりと楽しめると思います。
長生きしたらもう一回行こう。

-チェコ・9月9日

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