正岡子規は夏目漱石を通して若干の親しみを感じるけれども、実際に著作を読んだこともなければ、俳句も一つ二つしか知らない。漱石を俳句へ導き、激しい歌論を起こし、野球が大好きで「野球(の・ぼーる)」を自分の雅号とし、若くして結核で亡くなったことしか。……あ、あと頭の形が面白いですね。
そんな正岡子規が実は東北に旅をしていました。
え、若いうちに結核を発症した子規が?そんな暇あったかいな。と思って調べてみたところ、大学を中退して、新聞記者として働いていた26歳の頃のことでした。22歳の時に初めて血を吐き、28歳の時の大喀血により療養生活に入る子規の人生。
当時結核は死病でしたから、子規は自分の人生の終わりがそう遠くなく来るという自覚があるなか、動けるうちに行けるところには行き、見られるものは出来る限り見る――そういう決意があったのかもしれません。
古山拓著「子規と歩いた宮城」。
わたしが子規の東北旅行について知ったのはこの本からでした。
(中古で買う意味はなく、著者の個人サイトから買った方が良いと思われます。)
古山拓という人は画家で、この本で子規の東北紀行「はて知らずの記」に沿って宮城県内を回り、水彩画を描いています。
「はて知らずの記」のルートは大雑把に言って、東京を出発し、仙台、酒田、八郎潟、水沢とたどるもの。上記の本はそのうち出発点の東京と、その他は宮城県内に焦点を当てました。宮城県内で取り上げたのは名取、仙台、多賀城、塩釜、松島、国見、落合、熊ヶ根、関山峠。
各地の水彩スケッチにすっきりとした短文がついていて、なかなか読んで気分の良い本でした。地元新聞の河北新報に連載したものを加筆修正した内容だそうです。
俳句と旅。相性よろしき。
ネット上で「はて知らずの記」の、おそらく全文を入力して下さっていた方がいたので(労作……)ひとわたり目を通しました。同じ奥州路をたどっていることもあるでしょう、おくのほそ道を髣髴とさせる。
子規は本文中では特におくのほそ道にも芭蕉にも言及していないようですが、何しろ書き出しが、
松島の風象潟の雨いつしかとは思ひながら
で始まるので、おくのほそ道を慕う心がまずあったのだと思います。古来、人は浪漫を求めて北を目指す。西行は歌枕を訪ねて。西行と義経の跡を追って芭蕉が。芭蕉を慕って子規が。
紀行文と俳句の相性ってこんなにいいものなんだ、とこれを読んで思いました。おくのほそ道を読んだ時はそこまで思わなかったのですが、「はて知らずの記」は地の文(紀行文)と俳句の分量が適度。すらすらと読める。
芭蕉の場合は紀行文は紀行文として一つの随筆になっており少々長い(そして作品としてかなり推敲を重ねているので少々重い)が、子規の場合は紀行文がほんの2行からせいぜい6、7行、少し長い前書きのようなもので、挿入された俳句の数も多め。これがちょうどいい。紀行文の俳句との相性というより、子規の場合はというべきかもしれません。
地の文が俳句の前書き(説明)になるから、俳句の内容が考えなくてもすっと通り、実に素直に受け取れます。コムズカシイ解釈は必要なし。俳句にされることで情景が目に浮かぶように見え、俳句が挿絵のような役割を果たしている。一句としてたとえ出来が良くなくても紀行文のなかにはめ込まれるとなだらかに読める。
ちなみにこの中の俳句には「涼し」の言葉が大変多いです。当時の東北はそんなに涼しかったのか?それともさすがに東北でも夏の旅はきつく、涼しさを求めて詠んだ句か?
東北本線は子規の旅する数年前に開通したばかり、仙山線はまだありません。仙台-酒田-秋田-水沢というルートで、仙台から酒田までの間は基本的に徒歩だったはずです。馬、あるいは人力車という可能性もありますが。
結核の身で、日がな一日、炎天下、そして雨の日も歩く――昔の旅は歩くのが当たり前とはいえ、現在から見ればそのエネルギーは驚異的。
実は東北に来ていた子規。
今まで旅人のイメージはなかった子規ですが、わたしが思っていたよりは数多くの土地を訪れているようです。
「はて知らずの記」はこの本に収録されています。
あ、ついでにこれも読みたい気がする。
読むリストに入れました。
なお、「子規と歩いた宮城」はAmazon、楽天ブックスで取り扱いが少ないようですが、
にて通信販売を行なっているようです。個展での販売もある場合があります。
良い本だったので、ご興味のある方はどうぞ。
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