ものがたり日本史

◎日本史上、人気の3人。1人目は織田信長。ものがたり日本史・第4巻。

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今までは時代区分の順番と、その時代区分が表すものを見てきました。ここが頭に入れば、あとは自由自在に歴史を辿れます。

◎時代区分名=政治の中心地。超シンプル日本史・第3巻。

 

目次をつかめばこっちのもの!

日本の歴史って通常面白くもない縄文時代、弥生時代から始めるから嫌になっちゃうんですよね。まあ考えようによっては縄文、弥生でも面白いトピックはいくらでもあるのですがとにかく地味です。

野球を全然知らない人に往年の小坂誠の守備がいかにすごかったか、というところから始めるようなものです。ホームランバッターのような、ど派手なところから参りましょう!

 

日本史上の推しベスト3から!

日本史上の人物で人気投票をすると、1位から3位はかなり安定してこの3人。

1位:織田信長
2位:坂本龍馬
3位:徳川家康

歴史上の人物として、まずこの3人の物語を始めましょう。ちなみに別に覚えようとしなくてもいいです。こんな人が500年前にいたと思えば。こんな人が波乱万丈の人生を送ったんだなあと思えば。

 

織田信長のものがたり。

日本史上、唯一の専制君主。……になったことでしょう、もし50歳を前にして突然殺されたりしなければ。

織田信長は戦国時代の人。戦続きの人生を送りました。尾張の小領主から、戦を重ねてついには日本の中心部を全て勢力下に納めます。群雄割拠していた戦国時代の日本を統一する、その寸前までいった人。

しかし天下統一を目前にして、家臣の明智光秀に裏切られ、本能寺で討たれる。そのあっけない最期。まるで火花のような人生でした。

幼少期から乱暴者でした。

現在の愛知県名古屋近辺で生まれました。小さい頃から、良くいえば自由奔放――悪くいえば乱暴でやりたい放題の人物でした。

十代後半に父・信秀が死んだ時には、葬儀において位牌に焼香の灰を位牌に投げつけたなどという話が伝わります。若くして死んだ父への哀惜の情がそういう極端な行動に走らせたという意見もありますが、厳粛であるべき葬儀の場で嫡男がそんな行動をとれば、近辺の領主たち、親戚たち、家臣たちが驚き呆れるのも当然のこと。「尾張のおおうつけ」(大馬鹿)という立派なあだ名もつきました。

父が死んだ後、信長は家督を継ぎますが――しかしすんなりまとまった継承じゃなかったそうです。一族の本家とは仲が悪くて争っていたし、小さな頃から養育役的な立場にあった重臣の一人が自殺してしまいます。自殺の原因ははっきりわかっていません。あまりにも無頼な信長を諫めるために、または周囲との権力争いが元で、などといわれています。

幼い頃から、乱暴な信長は母に疎まれ、母は弟ばかりを可愛がったそうです。そのことと、父を亡くしさらに守役まで自分を見捨てて死んでしまったことは生涯信長の心の傷になったのではないでしょうか。後年の極端さはここに原因があると個人的には思います。

信長は隣国の美濃(今の岐阜)の戦国大名、斎藤道三(さいとうどうさん)の娘を正妻に迎えています。この斎藤道三と信長の関係がちょっと面白い。当時の隣国は常に仮想敵ですから、決して心を許す相手ではないはずなのですが、意外なことに道三と信長はうまが合ったらしい。

一説にはこんな話があります。婚礼の数年後、信長は岐阜の義父・道三と国境近くの場所で短時間の会見をしています。会見場へ向かう信長の行列をこっそり覗き見た道三は、信長が髪はぼさぼさ、着流しで腰には帯の代わりに荒縄、というだらしのない恰好で来ていることに腹を立てます。自分は威儀を正して会見に臨んでいるのに!道三は嫌になり、自分も適当な装束に着替え、約束の寺へ向かいました。

すると、そこで見たのはすっきりさっぱりと髪を整え、正式な装束で義父への礼を尽くす信長の姿でした。だらしない格好に着替えていた道三は恥をかきます。してやられた、と思ったことでしょう。しかし同時に面白い、とも思ったはずです。そして戦略家としての信長への評価を高めたのではないでしょうか。

道三は最終的には実の息子と戦になり、敗れて死にますが、その際信長に美濃の国を譲り渡すという書状を送ったと言われています。信長は義父に加勢しようと兵を率いて美濃へと向かいましたが、敵の勢いに対抗できず、苦戦しつつ退却しました。

道三という後ろ盾を失った信長に対して、弟と重臣たちの謀反が計画されます。元々、弟とは仲が良くありませんでした。母が弟ばかりを可愛がったという恨みもあります。信長に変えて弟を据えようという勢力と戦い、信長は勝利。一度は弟を許した信長ですが、再度弟が謀反を計画していることを知り、おびき出して殺してしまいます。戦国時代にはいくらでも見られた骨肉の争い。

信長の命運を分けた、桶狭間の戦い。

その後、親族たちとの戦に勝利し、どうにかこうにか尾張の領内は信長の勢力下に納まりました。信長はこの頃24歳ですから、18歳で父を失ってから、すでに人生は山あり谷あり。歴史上の人物はだいたいそうですが、彼の人生も波瀾万丈です。しかしこれは序の口にすぎない。

尾張の国をまとめて、やれやれと――多分信長は思わなかったのでしょう、早速京都に行って、当時の将軍・足利義輝に拝謁したりしています。基本的には「俺、尾張の国のアタマになったから。ヨロシク」ということかと思います。なぜかヤンキー的に想像される。

しかしその翌年にはもう、織田信長、最初の絶体絶命――隣国の今川義元の侵攻が始まります。今川義元は現在の静岡県と愛知県東部を押さえていた大国で、織田家よりも由緒も正しければ兵力も多かった。おそらく今川から見れば、隣の織田家はようやくごたごたが収まったばかり、まだまだ若造の信長、吹けば飛ぶような勢力という認識だったかと思われます。

今川方は2万5千、織田方は5千と言われる兵力差。そして「海道一の弓取り」と戦上手をうたわれた義元。対して大戦さは経験のない信長。勝負は自明かと思われました。今川方にその油断があったかどうか。

圧倒的な劣勢から、信長は桶狭間で義元の首を取ります。戦いは奇襲だったとか、土砂降りのなかで隙をついたとか、いろいろ謎が多い。この辺もつっつくと面白いところ。ともあれ、義元を倒した信長の名は全国に知られるようになります。

その翌年、美濃との対立が再燃。斎藤道三を倒した息子の義龍は死んでしまってますが、その後を継いだ斎藤龍興と何度かの戦をすることになります。勝ったり負けたりを繰り返し、最終的に美濃を取ったのが33歳の時。24歳の頃に尾張をだいたい掌中に収めたことを考えると、隣国を取るのにおよそ8年かかったのは長い。

とはいっても信長も美濃との戦いにだけかかずらっていたわけではなく、京都の状況、破局の気配が近い室町幕府の足利将軍家との危うい関係性、四国や滋賀、奈良などの勢力や朝廷とのやりとり……など、とにかく「アンタなんでこんなにごちゃごちゃやってんねん!」といいたくなるほどいろいろやってます。

第一次・第二次信長包囲網。

美濃を取った後、信長は弱体化している室町幕府の将軍・足利義昭の後ろ盾となって京都入りを果たしました。旧二条城を建てて将軍を住まわせたり、朝廷との交渉も行なうなど対旧勢力への工作も忘れませんが、自国の領土拡大にも同じくらい力を注ぎます。全方面的展開。

普通、戦争をする時には一度に一ヶ所に抑えておくべきものじゃないかと思うんですよね。両面作戦なんかやったら大変じゃないですか。

まあ普通じゃないから日本史上爆発的に勢力を伸張した人になったわけですが。たしかに信長は人材を抜擢したから、家臣団は他と比較して優秀だったかもしれない。経済の重要性もわかっていたから、懐具合も平均的な大名よりは豊かだっただろう。しかしそれも程度問題で、やりすぎるからこんなことになる。

北の朝倉氏と戦争に突入。(妹婿の浅井氏も信長に敵対)
西の三好三人衆及び石山本願寺と戦争に突入。
西南の伊勢長島で一向宗門徒の反乱。

この頃には信長の支配領域は日本中で5本の指に入るくらい広くなっていたわけですが、支配領域のほぼ西側全部で5方面の勢力と戦争。これは無茶ですねえ。
この時は各方面と和解、あるいは状況を鎮静化して何とか危機を脱します。

この翌年――
長島一向一揆を鎮静しようとしますが、負け戦。
敵対する比叡山を焼き討ち。800年の聖域を、焼いただけではなくて僧侶などの多数の首を切ったことで都人を震え上がらせます。
一旦は和睦した三好勢とも再び関係悪化。
石山本願寺とも引き続き対立。
そして今度は東側で武田信玄が。信長に直接敵対したわけではなかったが、信長の舎弟ともいうべき徳川家康の領地へ攻め込みます。
さらにダメ押しで、室町幕府将軍・足利義昭が反信長の立場へ。

これは絶体絶命でしょう。

第一次の時にあんなに苦労したんだから、その翌年はもう少し自重すればいいのに。いや、勝ったからいいですよ。勝算もあったんだろうけど、それにしたって比叡山を焼いたら京都や足利義昭が離れることは想定できるし、何だったらオールニッポンが態度を硬化させますよね。硬化=恐怖という面もあるから、デメリット一方ではないにしろ。

東と西に敵を抱える。これは通常は止めた方がいい作戦です。でも信長は通常じゃなかったですからね。

個別撃破。

まず足利義昭を都から追放します。都から追い出された義昭を、自分からかついで都入りさせて将軍として(便宜上)据えておきながら、あまり時をおかずに敵対してしまうのはもったいない気がしますが。そこまで使い勝手が良くない駒だったのでしょうね。義昭の人物的にも室町幕府将軍としての歴史的存在としても。

それから朝倉氏・浅井氏を倒します。前回の和解後、少なくとも信長の方は着々と裏工作を進めていたことでしょう。何しろ信長は全国を手に入れるつもりでいますから、味方に――というよりも、手下に絶対ならない存在とはっきりしていれば最終的には倒すしかないことは自明でした。浅井氏に嫁いでいた妹のお市の方が、この時の滅亡の時に3人の娘と共に救い出されたことは、また運命の一本の線として未来に繋がります。

長島一向一揆を鎮圧します。……ここでも最終的には焼き討ち。信長を形容する言葉の一つに「苛烈」というのがありますが、このあたりでもその苛烈さを感じる。一向宗という宗教でまとまる集団なので、下手に残すとゲリラ化していつまでも解決しないものではありましょうが、躊躇なく焼き討ちという手段を選ぶのが信長らしいところ。

対武田氏との戦い、長篠の戦い。
先立つ1年前、戦上手で信長を恐れさせていた武田信玄はすでに死没しています。信長は徳川家康と同盟を組んで当たります。この戦いは鉄砲三段打ちの画期的な戦法で有名。この間テレビで実験をしていたのですが、まっすぐ馬で突っ込んで来る敵に対して、この頃の鉄砲の射程距離ではほんの2、3秒しかチャンスがなかったそうですよ。馬を足止めする馬防柵も有効に働いて、信長は名高い武田の騎馬武者を無力化し、戦いの勝利をつかみます。

これらの戦いがひと段落したところで、信長の立場は天下人に……何をもって天下人とするかがはっきりしないので断言は出来ないのですが、まあ天下人だろう、という立場になります。一つの理由としては、この時信長は朝廷から右近衛大将という官位を授けられているんですよね。それまで他の官位をくれるというのを断っていたのに。このことにより、源頼朝から続く武家の第一人者の文脈に組み入れられるということにもなります。

今まで破天荒で売って来た信長にどんな心境の変化があったのか。右近衛大将だからこそもらったのか。この辺りも深掘りすると面白そうです。

だがしかし。

第三次信長包囲網。

右近衛大将になっても、何しろ信長には敵が多い。まあこの称号は朝廷が勝手にくれるもので、他の勢力が信長に従うという根拠にはならない。

今回の敵は、
近場の(小さめの)大名。
相変わらずの石山本願寺。
そして東の大大名、上杉謙信。
西の大大名、毛利輝元。

この時の包囲網は第一次、第二次に比べると絶体絶命感は薄かったように思います。これはすでに信長の立場がある程度固まりつつあり、それに対して敵の上杉謙信と毛利輝元は強大でも遠かったこと。とはいえ、遠方の強国とはいずれ雌雄を決しなければなりません。

そういういざこざはありつつも、信長は朝廷からさらに位を引き上げられ、最終的には右大臣までになります。これは朝廷の位階の偉い順番で全体の3番目。今までも足利将軍が何人か1番目や2番目になった例はありましたが、将軍でもない武士としては破格。将軍に並んだことになります。

が、右大臣になって約半年後には突然その位を返上。この返上もいったいどんな意味があったのか……?なんのかんのいって位が高いというのは、たとえお飾りにせよメリットがあったと思うのですが。この辺の、信長が官位についてどう思っていたのかは知りたいところ。

まだまだ山あり谷あり。

その後も、信長の人生のイベントは山盛りです。

毛利氏との本格的な対峙。
信長を裏切って毛利氏と結んだ荒木村重の反乱。
本拠地としての安土城の完成。巨大で豪華な、目を瞠る建物だったそう。

盟友関係にあった徳川家康に対して、家康の正妻・築山殿と嫡子・信康への切腹命令。
この事件の経緯も謎で、いろいろな説があるところ。

京都で大規模な馬揃え。馬揃えというのは軍事パレードのことで、名前からすると馬を単にたくさん並べて歩かせるだけのように思えますが、むしろ「人揃え」と名づけた方がイメージが湧きやすい。信長が配下の武将たちをこれでもかというほど集め、当然その武将も大勢の武者たちを率い、鎧兜なども美々しく揃え、延々と行う示威行動。ディズニーランドのパレードの構成者を、ミッキーや白雪姫から武将たちに変えて数倍したものを思い浮かべていただくといいと思います。

なお、あちこちで戦闘中のため馬揃えに参加出来ない家臣たちも多くいました。豊臣秀吉もその一人で、派手好きの秀吉はこのパレードに参加出来なかったことをとても残念がったそうです。この馬揃えを見て、京都の公家たちも庶民も、これだけの軍事力を持っている信長への認識を新たにしました。良くも悪くも。

高野山(←宗教勢力)とも戦闘態勢に入る。こちらは比叡山と違って全山焼き討ちにはならずに済んだ。

1年ほどかけて対武田氏との様々な戦闘あり。最終的には武田勝頼を追い詰め、自刃させ、武田氏との戦闘に勝利。ここで東側の大大名武田氏を倒したことで、長野県、山梨県、群馬県南部、静岡県一部が信長勢力下に入ります。

東で残るは現在の新潟県を中心とする上杉謙信と、関東の北条氏。信長にとってもどちらも強敵ですが、上杉と北条にとっても自分の数倍の勢力になった信長は恐怖だったはずです。どちらも正面から信長と事を構えようとはしなかった様子。

また、他の地域の大名たちも信長の勢力拡大を見て、信長への恭順の動きが広まります。

しかし天下統一目前で……

以前より秀吉に命じて中国地方の毛利氏に当たらせていました。しかしなかなか落とせません。信長は明智光秀に、現在の岡山県にある備中高松城を攻めている秀吉の応援を命じます。

それまで信長の命じるがまま、従順に任務をこなしてきた有能な光秀。真面目な人物だったはずです。歌の素養もあり、教養もある人。そんな人がなぜここまで思い切ったことが出来たのか……。わたしから見ると無謀な行動だったように思えて仕方ありません。

備中高松城へ向かうと見せかけて、光秀の軍勢は京都への道をたどります。「目指すは本能寺!」本能寺には信長が少人数の家臣とともに宿泊していました。光秀はそこを襲ったのです。

光秀が率いていたのは13000人。対して本能寺にいた信長の家来は約100人。しかも滞在していたのは、建物として防御力が高いとはいえない「寺」です。信長側も奮戦したとは伝わっていますが、勝負はあっという間で30分ほどと言われています。信長は幾人かの敵を槍をもって倒した後、寺の奥座敷で自ら命を絶ったとか。享年49歳でした。

 

織田信長とは。

近年でこそ大人気の信長ですが、残虐な行動も多かったことから、江戸時代の終わり頃までは主に悪役としてイメージされていました。

そのイメージが変わったのは幕末、尊王倒幕の思想が広まった頃。天皇の守護者としての信長と考えられました。現政権である江戸幕府に対して、それ以前のロールモデルとなったのが信長かもしれません。わたしとしては信長が天皇、あるいは朝廷に対して尊崇の気持ちで行動したかといえばそんな気もしないのですが、この辺は考え方がいろいろあるようです。

信長の人気が高まって来たのは近年、合理主義者・改革者としてのイメージがついたことからです。映画やドラマなどでも、以前はそうでもなかったのにだいぶかっこよく描かれることが増えました。信長を中世の終わりの人と位置付けるのか、近世の始まりの人と位置付けるのかはここもまた意見の分かれるところ。

信長として主に紹介される肖像画も他の人に比較してかっこいいんですよね。以前は教科書で見るくらいだったと思いますが、インターネットで画像を見る機会も増えて、こういうこともイメージアップにつながるのではないかと思います。

Oda-Nobunaga.jpg

 

ちなみに信長の肖像画はたくさんあるんですよねー。

ちょっと写真がアレですみません。

巷に流布したのがあの肖像画だからこそ人気が出たと思う。

わたしは信長は好きですが、世にここまでもてはやされるほどにスゴイ人だとも思わないので、今の人気ぶりはどうなんだろうなあという気がします。いいんだけれども。

 

 

信長を書いてみて、……ちょっと長すぎましたね。超シンプルを目指しているんだけれども、しかし歴史はあらすじを追っているだけではそれこそ教科書的で、全然面白くない。細部にこそ面白さがある。が、どこまでも細かくして行けばいいかというとそれも違う。今回は細かく書き過ぎました。わたしが重要だと思うことを選んだのですが、その取捨選択も正解とはいえないかもしれない。

自分なりにガンバリました。次はもっと細かすぎず、粗すぎず、適度なまとめを目指します。

 

 

 

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