この辺は雨が多いから、とB&Bの奥さんは教えてくれた。テレビではウィンブルドンテニスが映っている。あっちはずいぶん天気が良さそうなのに。目玉焼きとベーコン、オレンジジュースの朝食を終え、窓の外を眺めると空は灰色。六月の湖水地方は、長袖を二枚重ねても寒かった。
牧草地と道を区切る石積みには苔がみっしりと生えている。やはり間違いなく湿気の多い土地柄なのだ。濃い木々の緑も重く見える。灰色の空を映した湖の色も暗い。
ウィンダミア湖を対岸へと渡る。船というにはあまりにもフラットで大きい。道路をそのまま切り離したアスファルトの筏のような物体。車が数台乗りこんできた。車専用の渡し船なのか?このまま乗っていていいんだろうか。いかにも観光客然とした自分が場違いな気がして、そわそわと落ち着かない。
対岸で、ニア・ソーリーへの道は山の森の中へ続く。人気のない静かな森。羊歯の群生。鮮やかなピンクのジギタリスが高く頭をもたげる。しかし日本の山道と比べると光が入って明るい。たしかにここなら、うさぎのピーターが青い上着を着て振り向くかもしれない。
森を抜けると緩やかな起伏の牧草地へ。どう見ても私有地だが、一応標識があり、通ってもいい場所らしい。だが牛の横をすり抜けて歩くのは――少し怖かった。
通りすがりのゲストハウスの前庭に植えられた花々。賑やかな色彩で訪れる人を出迎える。その代わり人間は誰も見当たらない。出迎えは花に任せているのか。
こんなところに住むのは、どういう気分なのだろう。周りはどこまでも牧草地。集落とはいえ、パブが一軒あるかないかのささやかさ。スーパーもなければコンビニもない。本屋もない。映画館もない。観光客向けの安直なミュージアムは、ウィンダミアやホークスヘッドにいくつかあるが、住民が見てそれほど楽しいものでもないだろう。外から取り込めるものはごく限られている。
外から取り込めないとしたら、その精神生活は自分の内部で豊かに発酵させるか、あるいは身近な人々との交流によって刺激を受けるしかない。今の時代、テレビやネットは世界をとても近くしているが、バーチャルなものより五感で得られるものの方が、より強い影響を持つのは当然のことだ。
心静かに満ち足りて。あるいはどこか遠くを夢見て焦燥に駆られつつ。ここの住人たちは果たしてどちらの心で日々を送っているのか。――集落を通りぬけてもやはり人影はない。
雨。細かい雨。
灰色の空から、我慢しきれなくなったように雨が降って来る。運が悪い、とは思わない。さっきから降らないのがむしろおかしいような空模様だったから。それでなくてもイギリスは、毎日決まった時間にきちんきちんと雨が降る国だ。紫色の折り畳み傘を広げる。傘の陰に隠れると、世界はその大きさに縮む。傘に当たる微かな雨音を聞いているのは自分だけ。
小さな湖の脇を通って。雨に濡れてますます暗い色になる木々を眺めながら。寒い空気を頬に感じつつ歩く。
雨の中、羊たちは黙々と草を食んでいる。ただ地面だけを見つめて、そばを通り過ぎるわたしの方はちらりとも見ないで。彼らにとっては足元の青々とした草だけが世界。小さな世界の大きな幸福。
羊の姿を見ながら、まるで悔恨のような思いが湧き上がる。
こんな風にも生きられるのかもしれない。いつも“ここではない、どこか”を目指すのは間違っているのかもしれない。大きな幸福に突き当たるのは宝くじに当たるような夢物語。であればすぐそばの極小の幸福を楽しんだ方が賢い。遠くを見ずに。大きなものを求めずに。目の前の幸福だけを見て。
羊のように。羊のように。
新しい呪文を心で呟きながらわたしは歩く。そろそろ宿へ帰らなければ。そして明日はこの土地を発ち、また別の町へ行く。ここではないどこかへ。――古い呪文と新しい呪文では、どちらが心に棲みつくのか。今はまだわからない。