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◎「俳句いろはかるた」の俳句たち。【さ】~【と】編。

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年年歳歳、かるたはいくつも作られ、何年か経てば市場から消えてしまいます。おもちゃなので、使っていた人が大人になると使われなくなるのもしょうがない。かるたで遊ぶのには最低3人、出来れば4、5人の人数が必要であり、大人が4、5人集まってかるたで遊ぶというのもなかなか酔狂なことですから。(とはいえ、わたしは機会に恵まれれば行なうにやぶさかではありません。関係ないが、大学の時によくやっていたUNO大会もまたやりたいなあ)

かるたは書籍ではないので、本棚に並べることもなく、ふと目についてぱらぱらとめくってみるということも少ない。かるたとして遊ばなくなるとその内容が忘れられてしまいます。江戸いろはかるたとか京いろはかるたとか、歴史的に残ってきたものはありますけど。(このことわざ系のかるたも知育玩具として優秀ですよね~)

わたしが愛用していたのは水原秋櫻子監修を売りにした「俳句いろはかるた」で、これは絵の美しさが大変気に入っていました。しかしこれもかるたの宿命、かるたとして使わなくなった後はどんな俳句が入っていたのか、このネットの大海で探してみてももうデータとしては存在しない。今後数十年残るように、ここに残しておきましょう。

【あ~こ】編はこちら。

◎「俳句いろはかるた」の俳句たち。【あ】~【こ】編。

さ行、さしすせそ。

【さ】

さみだれのあまだればかり浮御堂     阿波野青畝

(さみだれの あまだればかり うきみどう     あわのせいほ)

《我流訳》五月雨が降っている。琵琶湖中にある浮御堂は雨に取り巻かれている。屋根から落ちる雨だれがまるで浮御堂を包んでいるようだ。聞こえるのは雨だれの音ばかり。

《感想》浮御堂を知らないんですよねえ……。この句はこれを知らなければいかんともしがたい。というわけで調べました。

「琵琶湖岸の満月時付属の仏堂。岸とは橋のみで繋がる」でした。御神輿タイプの建物が湖の上に建てられた柱に乗っかっている状態。建物の感じとしては松島の五大堂が、島ではなく海中の柱に直接建てられた状態でしょうか。中には千体の仏像が安置され、またその周囲の風光明媚な景観と合わせて、昔から聞こえた名所だそうです。

この句は「さみだれ」と「あまだれ」の響きの類似を楽しむ句だと思います。どちらもひらがなで書いてるし。……浮御堂の含むイメージを知らない状態で読むとこんな程度しか言えない。

絵は浮御堂に雨の降る絵。なかなかの土砂降りです。

 

【し】

閑さや岩にしみいる蝉の声     松尾芭蕉

(しずかさや いわにしみいる せみのこえ     まつおばしょう)

《我流訳》名所だと聞いて出かけて行った立石寺は厳々とした岩山、松も岩石も年を経て苔むしている。夕暮れ、山上の寺々はもう扉を閉ざして人影もない。ふと気づくと蝉の声だけが岩にしみ込むようにかすかに聞こえる。

《感想》アブラゼミがミーンミンミンと暑っ苦しく鳴いている。世界がその音で埋め尽くされ、行き所を失ってとうとう岩にさえしみ込むようだ。――という意味だと思っていました。長年。しかし言われて初めて気づいたが、それでは「しずかさや」と合わない。

この点をめぐって斎藤茂吉と小宮豊隆の2人の文学者が大論争をしたそうです。斎藤茂吉はアブラゼミ派。小宮豊隆はニイニイゼミ派。結論はニイニイゼミの勝利。芭蕉が立石寺に旅した7月下旬、山形ではアブラゼミは鳴かない、という(即物的な)理由により。斎藤茂吉は立石寺に近い山形県上山市の出身だったのにねえ。

でもこの句をうるさいほどの蝉しぐれに埋め尽くされた山寺の情景と読んでもいい気がします。少なくともその方が斬新で面白い。極まって転ずの構図。それもあり。

とはいえ、この句は「おくのほそ道」に出て来る句で、その文章の方で夕暮れの山の寺の静かさを描写してからの一句になります。

絵は――どうだったでしょう、印象が薄い。林の情景を描いたものだった気がしますが。絵が浮かんでこない。

 

【す】

菫程なちひさき人に生まれたし     夏目漱石

(すみれほどな ちいさきひとに うまれたし     なつめそうせき)

《我流訳》おとぎ話に出て来るような、すみれくらいの小さい人。もしそんな存在だったら、浮世のあれこれに煩わされることもなく幸せに暮らせるだろうに。

《感想》あんなおっさんの漱石がこんなにカワイイ俳句を詠んでいる……。というのが後年、この俳句の作者が漱石であることを知った時の驚きでした。花の名前なんか一つも知らないような朴念仁のような顔をして、というのは言い過ぎ。漱石は好きなんです。家庭内DVを行なっていた可能性は否定できない人だが。

絵は濃い紫の野すみれ。細長い葉。すみれは好きな花です。

 

【せ】

青天や白き五弁の梨の花     原石鼎

(せいてんや しろきごべんの なしのはな     はらせきてい)

《我流訳》真っ青な空に。真っ白な梨の花が映えて。きれい。

《感想》これ以上はないほどシンプルな一句。これがわざわざ選ばれるほどの名句なのか?と思っていました。

が、実際の梨の花を知ると見方が変わります。たった一度だけ、花屋で梨の花が売られているところに行き会い、買って帰りました。1メートルを超える大ぶりの枝もの。家で一番背の高い花瓶を動員しました。

梨の花は真っ白で、桜に似て桜よりも清々しく、こういう言葉はないけれども「清凛」という言葉がぴったり。見ていると幸せになる。長く咲いてくれました。花の終わりは花びらが散って、片付けるのがめんどくさかったけど。

わたしは花瓶に挿してしか見られなかったけど、これが雲一つない空を背景に、光に透けていたらもっときれいでしょうねえ。

しかしこんな句を作るのは勇気がいるなあと思います。なんのひねりもない。俳句なのか……?と素人ならば思う。

絵は、そのまま。真っ青な空に真っ白な梨の花。

 

【そ】

空をゆくひとかたまりの花吹雪     高野素十

(そらをゆく ひとかたまりの はなふぶき     たかのすじゅう)

《我流訳》見上げると桜。風にふかれ花吹雪が舞っている。

《感想》これが、わたしはいまだに納得出来ない句で……。花吹雪がかたまるか?と思ってしまうのです。花びらが一枚一枚散っていくのが花吹雪ではないのか。たとえ吹いた風にいっせいに花びらが散った時でも「ひとかたまり」になるのかどうか。「空をゆく」なら見上げた視点ですよね。かたまって見えるかなあ……。

理屈に合ってないから悪い、というものでもないけど、間尺に合わないと感じる気持ちの方が強い。

絵は素直に、薄紅色の桜の一枝。

 

た行、たちつてと。

【た】

高嶺星 蚕養の村は寝しづまり     水原秋櫻子

(たかねぼし こがいのむらは ねしずまり     みずはらしゅうおうし)

《我流訳》養蚕で生計を立てている村は夜が早い。もう皆が寝静まり、人の気配はない。そんな村を天頂近く輝く星が優しく見守っている。

《感想》高嶺星がわかりそうでわからない。漢字は高い嶺のことで、でも星は山よりもはるかに高いでしょう?高嶺でいえば「高嶺の花」などはかろうじてまだ流通している言葉ですけれど「星」と「山」には直接的な意味の繋がりがない。

イメージの良い言葉ではあります。

養蚕は桑の木を大量に必要とするので土地が広くないとダメかな?と考えつつ、この「蚕養の村」は山の中の狭い土地にひっそりとある隠れ里のようなところかと想像しますね。秋櫻子がこの句を作った頃の世の中は、どこであろうと夜は静かなものだったでしょうけれど、寝静まった村はそれこそ灯りの一つも見えない真の闇。ただ星明りのみが地上を照らす。

水原秋櫻子は自分が監修として関わったものにこの句を選ぶということは自信作だったのでしょうね。

絵は、紫の夜空に浮かぶ星と桑の枝。きれいな絵で、わたしがこの俳句にいい印象を持っているのはこの絵に負うところが大きい。

 

【ち】

ちちぽぽと鼓打たうよ花月夜     松本たかし

(ちちぽぽと つづみうとうよ はなづきよ     まつもとたかし)

《我流訳》ちちぽぽと鼓を打とうよ、花と月が美しいこの夜に。

《感想》ちちぽぽとはなんぞや。と昔から思っていました。鼓はチチポポと鳴るのか?でもポンポンと聞こえるしなあ……。そしたら今回初めて知りました。鼓の音階は、

強く高い音(タ)、弱く高い音(チ)、弱く高い音(プ)、強く低い音(ポン)

で構成されるそうですよ。このうちのチとポンのことなんですね。いわば「ドレミとリコーダーを吹こうよ花月夜」というようなもんですか。

作者の松本たかしは能役者の家に長男として生まれました。しかし病弱だったため、少年期の終わりごろ、能楽の道を諦めます。おそらく本人にとっては挫折だったでしょう。弟の松本恵雄は能楽の道で後に人間国宝になりました。そういう環境なので、松本たかし自身も鼓はたしなんだでしょう。

花月夜という言葉が好きです。

絵は鼓に桜の花びらがひらひらとふりかかる図。

 

【つ】

露散るや提灯の字のこんばんは     川端茅舎

(つゆちるや ちょうちんのじの こんばんは     かわばたぼうしゃ)

《我流訳》不明。

《感想》この句はほんとにわからない……。たしか昔もわからなくて、この句は珍しく解説を読んだ気がするのですが。

かすかな記憶では、向こうから歩いてきた人の提灯をふと見ると「こんばんは」と書いてある。普通は屋号や家紋なのにそういう挨拶を提灯に書くのが面白くて、すれ違った後、心楽しくなった。たしかそんな風なことを書いてあった気がします。

しかし「提灯の字のこんばんは」でそこまで読み取れますかねえ。これは本人に説明してもらわないとわからない気がする。しかも「露散るや」がどういう風にかかって来るかもわたしには不明。川端茅舎の句をいくつか読むと、季語と内容がどう繋がっているのかわからないものが多い。

絵は、こんばんはと書かれた提灯。まあそりゃそうでしょう。絵の物足りなさと句のわからなさとあいまって、わたしにとっては一、二を争う外れ札でした。

 

【て】

手花火のこぼす火の色水の色     後藤夜半

(てはなびの こぼすひのいろ みずのいろ     ごとうやはん)

《我流訳》手に持った線香花火をじっと見ている。ぱちぱちと弾ける火花。ふと気づくと花火が水に映っている。水に映った火花もまた佳し。

《感想》味わいがありそうでなさそうな一句。とりあえず水が何なのか知りたい。池でしょうか。桶かたらいでしょうか。水たまりでしょうか。

描かれている絵が水たまりっぽかったんですよね。手花火も適当だった。これは絵の適当さが句を損なった、このかるたにしては残念な部類の一句でした。絵に惑わされないようにして読むと美しいイメージの句なのですが。

池だとすると、手花火をしている人たちからだいぶ離れて見ている人が作った句になりますね。桶かたらいというのは、花火の際の火の用心として水を用意しておくことはありそうなので、一番無難な気がします。水たまりでは艶消し。ただたらいに水を張って花火がきれいに映るかというと不明。

絵は適当に描かれた(線香花火ではない)花火。手花火とは手に持って遊ぶ花火全般。線香花火とは決まっていません。下に水たまり。

 

【と】

遠山に日の当たりたる枯野かな     高浜虚子

(とおやまに ひのあたりたる かれのかな     たかはまきょし)

《我流訳》目の前に淋しい枯野が広がっている。その向こうにある山に日が当たっている。その姿がどっしりとして――淋しい野にいる自分を支えてくれるもののように思えた。

《感想》高浜虚子自画自賛の一句。遠山だけに日が当たっている解釈と遠山と枯野どちらにも日が当たっている解釈とどちらもあるそう。わたしは枯野には日が当たっているように思うのだけれども、そうすると意味がわからなくなるので、遠山だけに日が当たってる方を採ります。

絵は山と枯野。そのまんま。あまり面白みのない絵でした。

 

ラインナップ、【さ】~【と】まで。

今回の新知識は「鼓の音階はタ・チ・プ・ポンである」と知ったことです。なるほど、だからチチポポか。よくわからない擬音だと思っていたのですが、ちゃんと根拠(というか音階そのまま)があった。

今回の十句のうち好きな句は、

菫程なちひさき人に生まれたし(夏目漱石)

でした。

 

 

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