いろいろ徒然

◎国語辞典からの挑戦状。「幽遠」で2000字。

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わたしが聴いている某ラジオで、パーソナリティーが突然お題を与えられて10分喋るというコーナーをやっています。もう過去形かもしれない。今後再びやるかどうか。やらなさそう。大変だから。

それを書くことで真似したらどうだろう、と思って何回か挑戦しました。10回くらい書きましたね。が、パッと反射で書くことにあまり意味はないなというのが結論。筆の赴くままといっても、やっぱり筆は自ずから赴かないですね。当たり前ですが、時間をかけて考えないと。

今回国語辞典から出て来たお題は「幽遠」でした。こんな言葉、使ったことないですねー。自分の語彙にない。2000字を目途に書いてみます。検索禁止のルールはとりあえず継続。

 

幽遠:奥深くはるかなこと。

 

「幽遠」で2000字。

幽遠と聞いた時、ぱっと思いついたのは雪舟でした。室町時代の画家。日本絵画史上、最初期に位置する個人の画家。水墨画。涙で床にねずみを描き、そのねずみがまるで生きているように見えたという伝説があること。

が、わたしが雪舟について知っていることはそれがほとんど全てで、作品も一枚しか浮かんでこない。これでは何も書けない。

次に浮かんだのは世阿弥でした。能の大成者。「風姿花伝」を書いた人。でも世阿弥がよく言われるのは「幽玄」で、それに引っ張られて思い出しただけ。幽玄でも幽遠でもあまり変わらないんじゃないか、と思うのはわたしがランボーなだけで、全然別の言葉です。

最終的に思い浮かんだのが西行。平安時代末期の歌人。武士からお坊さんになった人。旅をよくした人で、当時長旅は大変だったろうに、鎌倉や平泉まで足を延ばしています。

この人が好きだ。この人を書こう。

西行。

昔、吉野へ行ったことがあります。二週間近くかけて京都・奈良を廻り、飛鳥に宿を取って吉野へ足を延ばしました。

吉野は花の名所。でもこの時は三月初め、桜は蕾をつけてはいましたが山はまだ灰色でした。観光客もわずかで、人がその辺をほろほろと通るくらい。蔵王堂、吉水院、高取城。源義経が静御前と隠れたと言われるお堂にも行きました。そして西行が住んだと言われる西行庵にも。幽遠なのはこの西行庵。物理的に。

何の変哲もないような小さな庵です。人里からここまではかなり遠く、周りは杉の林で自分以外は誰もいない。物音が聞こえるとしたら風が杉や竹を揺らす音。おそらくいるであろう狸や猿以外生き物の気配はない。こんなに人から遠く離れるどんな理由があったのだろう。

西行は若い頃、武士でした。天皇のいる御所を守る北面の武士。それが突然出家した。妻も子もあったのに子を縁側から振り捨てて。

そこにはある身分の高い女性への恋心があったと言われています。相手は待賢門院璋子、天皇の妃。当時の高貴な女性は他人に見られないように気をつけていたはずだし、身分は全然違うし、璋子自身が西行を知っていたとはわたしは思わないですが、人は見ぬものに憧れるもの。御簾の奥のかすかな気配にだんだんと心を奪われていったのかもしれません。

恋だけが理由なのかはわかりません。しかし二十三歳の青年だった西行は世を捨てました。平安時代、若い頃の出家は現代よりも世間からの脱出の意味が強かった。

源氏物語では、あの人もこの人もみんな出家していて……。そんなに出家の割合が高かったのか?と疑問に思います。高齢になった時に後世を祈って形ばかり出家するという貴族は実際多かったようです。

西行は、出家しても意外に俗世から近いところにいたようです。世を捨てたわりには頻繁に出入りをしていた有力者の邸もあり、そこでの女房(=侍女)たちとのやりとりもなかなか洒脱だったらしい。人気があったみたい。武骨な武士がどこでそんな処世術を身に着けたのだろうか。

出家することで世間のしがらみ、身分制度から解放されたということだろうか。そういう一面はあったと思います。お坊さんは世俗の身分と離れたところで行動出来たんですよね。

西行はふらふらと山野を歩き回ります。吉野の庵に住んでいたのはどのくらいの期間かわかりませんが、都に行ったり、難波に行ったり、あちこちを歩いたらしい。もちろん吉野のさらに奥へもさまよいました。桜を愛した歌人は花の歌をよく詠む。

咲き初むる花を一枝まづ折りて 昔の人のためと思はむ

この歌は好きな歌。西行は、おそらく深い山の中を歩いている時、人の見ない場所に山桜が咲いているのを見つけたのでしょう。この桜は華やかなソメイヨシノではなく、おそらく控えめで野趣のある山桜。

その最初の一輪の枝を折る。心にいつまでも残る、一人の人に捧げるため。

いつ頃作った歌かは知らない。わたしは、もう中年になった西行を想像します。若い頃、世を捨てるほど苦しかった恋。今はその人も世にはおらず、面影だけがほんのりと胸に残っている。一人きりの山道、その人の面影と歩く。そういう時に詠んだ歌。

西行はこんな歌も作っています。

願はくは花の下にて春死なむ その如月の望月のころ

旧暦だから如月――二月は現在の三月。望月は満月のことですから、西行は桜の咲く春の満月の頃に死にたいと歌った。実際に春に死んだはずです。歌って、旅して、花を愛して、その花の頃に死んでいきました。

仏には桜の花をたてまつれ わが後の世を人弔わば

自分の成仏を願って供養をしてくれるなら桜の花を供えて欲しいという歌。

平安末期、和歌はどんどん複雑で技巧的になっていった。悪く言えば凝りすぎていろいろなことを知っていないと楽しめない。抽象的で難しくてわたしにはよくわからないんです。

でも西行の歌は直截的でわかりやすい。それは彼が武士出身だからかもしれません。おそらく当時の本職の歌詠みには馬鹿にされたかもしれないほど素直な歌だけれども――後世読むわたしには、素直に意味が取れる彼の歌は心にすっと入ってくる。

俗世を離れるために出家したはずですが、西行は現世と関わる行動も多く行なっています。讃岐へ流された崇徳院を気遣うことを忘れなかったし、鎌倉の源頼朝や平泉の藤原秀衡の元まで東大寺への寄進を求めに行ったりもしている。

この行動力はやはり武士のものかと思ったりもします。その辺の公家ではこうはいかない。特に失墜した崇徳院へ厚意を表すのは勇気ある行動だと思う。一介の僧ですから、それこそ現世を離れた存在として周囲からの目こぼしもあったでしょうが、人は自分の身を守りたがる。臆病になる。当然のことです。何もわざわざ火中の栗を拾うこともない。

でも西行は崇徳院にたびたび便りをし、力づけ続けました。この崇徳院は待賢門院璋子の生んだ息子です。……真実がどこにあるかはわからないけれど、まだ持っていたのかもしれません。過去の思いを。

雅やかな人ではなかった気がします。洒脱だったかもしれないけど、おそらくは実直な、武骨なところのある。想像でいえば人を笑わせることが好きだった気がする。人といる時は朗らかで、しかし一人になりたい人でもあった。剛毅なところもあったけれども繊細で、月を見ては花を見ては美しさと物思いに涙する。

わたしの思い描いた西行はそういう人です。桜と旅を愛した人でした。

 

間違いチェック。

これで2600字くらい。ふう。

記憶の精度に問題があるので、間違ったことを書いている可能性多々あり。心配なので確認してみます。

幽遠は物理的なものにも使うのか?

西行庵は奥深くはるかな地にありますが、辺りの雰囲気が幽遠かというとそこまでではない。どうも「幽遠」というのは単純に物理的には使えないようです。もっと主観的な、雰囲気や抽象的なものについて使う方がいい言葉。

最初から前提を自ら全否定したところで、気を取り直して次に参りましょう。

高取城跡ではなかった。

どうもおかしいと思っていた。わたし、高取城へ行った記憶がなかったんだもん。これは高木山展望台のことを間違って「高取城展望台」とメモしていたようです。高木山展望台は吉野を一望出来る見晴らしの良いところ。

高取城は吉野からそんなに離れてはいないけれど、吉野の北側ですね。わたしが向かっていたのは吉野の南の方なので逆方向です。ここは楠木正成の縁だと思っていたのですが、違ったでしょうか?違ったみたいですね。

西行庵。

今行き方を確認したところ、思っていたよりは山奥ではなかったです。でもバスを降りてから30分弱歩くらしい。山を登っていくわけですからちょっときつい。

途中に金峯神社があります。ここも吉野の主要な観光地……ではありますが、正直人通りは少なめです。わたしが行ったオフシーズンはたしか誰もいなかったような。西行庵はここから10分程度さらに分け入ったところ。山の中の道なので、女性の一人歩きはちょっとお薦めできないかなー。

何の変哲もない庵です。別に当時の建物というわけでもない。西行が好きな人が行って楽しいところです。

なお西行庵といわれるところは全国に何ヶ所かあるようです。それぞれのいわれは確認してませんが、旅を多くした人です。陸奥へ、四国へ、伊勢の国へ。西行戻しの松などの言い伝えも何ヶ所もあるようですね。

最終的には河内の国の弘川寺で生を終え、そこにお墓があります。その死はまさに如月の望月の頃――満月の夜の次の日でした。

出家の原因。

出家の原因が失恋だというのは一説で、親しい友人の死に虚無感を覚えてという説もあります。また恋の対象も待賢門院璋子以外に複数人の名が挙げられています。

世を捨てる原因がただ一つだけという人は少ないんじゃないでしょうか。それまで積もり積もって来た気持ちがその時急にあふれ出るだけで、それだけが理由ではないと思います。

貴族が出家した場合は寺で修行は行わず、今までの家にそのままいて念仏などを唱えていたようです。髪は短くなり(男性の場合は剃り)、衣も黒や灰色など地味になりますが、それまでとそれほど違った生活になったわけではないようです。

が、西行の場合は巡礼の旅に出たり、山に籠ったりと、生活を一新したようですね。歳を取ってからの出家と違って、若い頃の出家はやはり強い意志の結果でした。

歌詠み人。

わたしは西行の歌の読みぶりから、歌人としては辺境だと思っていたのですが、当時もちゃんと認められていたようですね。専門歌人、藤原俊成とも親交があったらしい。が、やっぱり主流派ではなかったと思うんだよなあ……。西行の歌は素直でわかりやすく、そこがとてもいいと思うのですが、当時の主流はこねくり回した抽象的な歌風。

百人一首にも入っています。百人一首に入っている時点で異端とは言えないか。わたしは「定家なんかはこの人の歌を嫌ったんじゃないかなあ」と思っていたのですが、よく考えたら小倉百人一首を編んだのは藤原定家だった。嫌いな歌を入れはしない。百人一首の歌は、

嘆けとて 月やはものを思わする かこち顔なるわが涙かな

泣いてしまえと月が誘うのだろうか。いや、月のせいにして私が自ら泣いているのだ。

これは「月の前の恋」というテーマを与えられて、それに沿って西行が詠んだ歌です。当時は自発的に心の思いを歌うのではなく、テーマを決めて人前でお互いに歌を詠みあう、競い合う、ということも頻繁に行われました。

わたしはこの歌はあまり好きじゃない。ちょっと考えすぎている気がする。「かこち顔」の用例はこの歌以外にあるんですかね?

でも題詠の場合は少し恰好をつけるのもありだったかもしれません。考える時間はそんなに長くはなかったと思うし。

崇徳院。

この崇徳院がかわいそうな人で。

親に愛されなかったというイメージが強い。この頃の政局はもつれあっており、この人は政治的にも不遇でした。保元の乱は、他の人々にとっては権力争いでしたが、この人にとっては愛されなかった悲しみが理由だったように思う。

崇徳院と西行に交流があるように書きましたが、正確かどうかは不明。わたしはそういうことをどこかで読んだ記憶があるのですが……。まだ崇徳院が天皇だった頃、ある人物に怒りを抱き左遷しようとするのに対して、西行が間に入って許しを請うという歌が残っているので、当時親密だったことは間違いないと思います。

今ならば京都と香川の距離などあっという間ですが、保元の乱に敗れて配流された崇徳院にとって都恋しさは心を削るほどのものがあったでしょう。後世の人たちも崇徳院は無念を抱いて死んだと考えたのか、血でお経を書いた、死後怨霊になったという伝説も残ります。

西行は、おそらく崇徳院の歌仲間。そんな間柄であれば、身分の差を越えて、手紙のやりとりはあったのではないかな。あって欲しい気がする。有力な貴族でもなく、政治に関わりがあるわけでもなく、自分と違って身軽に旅に出る西行を、崇徳院はうらやましく見たかもしれません。

崇徳院は百人一首にも取られており、

瀬をはやみ岩にせかるる滝川の割れても末にあはんとぞ思ふ

流れの早い滝川の水は、岩に裂かれて離れ離れになってしまうこともある。それでも最後には必ず会えると信じている。

という情熱的な恋の歌を詠みました。

この情熱が、言葉をかえていえば感受性が、親に愛されないことでどれだけ傷ついたか。西行にはその傷ついた魂によりそう、ほんのり灯る明かりであって欲しい。

<「幽遠」で2000字。

と、いろいろなことを書きましたが久々に西行に触れられて楽しかった。振り返らないですからね、機会がないと。記憶はかなり薄れていた。待賢門院璋子だって自信がなくてちょっとドキドキした。ここでドキドキするようじゃいけないんですが。

久々にほんの少し書けました。

 

 

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