かるたの「ん」を「京」で代用するという文化は一体どこで始まったのか。どこに由来があるのか。
一説に、双六にならったと聞いたことがあります。双六は東海道の宿場を並べたものが定番だった。東海道は江戸から京ですから、上がりの京を「ん」に置き換えたと。
俳句にも京は数多く詠まれています。京がそんなに詠まれたということは、昔からその場所の風情が愛されたということでしょう。
歴史が好きだったわたしは中学生の頃、京都に生まれた人がうらやましかったですねー。お寺や神社がいっぱいあって、歴史も厚くて。仙台には平安時代要素がほぼですから。仙台はそれでも伊達政宗がいるだけ良いけど、わたしが好きなのは平安時代だったんです。かろうじて定義山ですか。多賀城跡が奈良時代を感じさせてくれるのは貴重。
今は奈良が一番好きかなあ。京都は、人が多すぎて。昔から人気があったけど近年の人出はちょっと限度を超えている。
【ま~よ編】はこちら。
ら行、らりるれろ。
【ら】
爛々と昼の星見え菌生え 高浜虚子
(らんらんと ひるのほしみえ きのこはえ たかはまきょし)
《我流訳》不明。
《感想》これはちゃんと俳句を知っている人々の間でも難解な句なんだそうです。たしかに、見てもさっぱりわからん。
調べて、実はこんな意味があったのか……!と驚いた季語も今までいくつかあったので、「爛々と」を改めて調べてみました。
が、光り輝くさま、鋭く光るさま、という説明で特に意外な意味はなし。菌と書いてきのこと読ませるのはチョットつらい。が、実際にある読みだそうだしなあ。
夜のように薄暗い森を歩いていると、ふと輝くものが目の端に入った。ぎょっとしてそちらを見ると、毒々しい色をした毒きのこ。不吉な、しかしどこか魅惑的なその姿。
わたしは、この句はこんな情景を写したものだと想像します。「爛々」の爛は、「爛熟」の爛なので、「ただれた」という意味もあるんですよね。それは毒きのこのイメージ。
絵がそもそも毒きのこっぽかった気がする。こういう解釈が難しい句の絵を描くのはハードルが高いでしょうね。
【り】
竜胆のかくれがほなるほそみかな ?
(りんどうの かくれがおなる ほそみかな)
《我流訳》りんどうはひっこみ思案。ほっそりとしたそのつぼみは、草ぐさの間に身を潜めたいと思っているよう。
《感想》なんとこの句、ネットの大海で探せなかったのです。そこまでマイナーな句だとは思わなかったのですが。なので作者がわかりません。誰でしょう?ひらがなと漢字の使い分けも正確なところが不明。
りんどうも花屋さんでよく見かけた花です。最近は前ほど見なくなった気がしますね。とはいえ、代表的な秋の花です。紫と紺色の中間のようなきりっとした色で、和風美人なお花。山道でごくたまに見かけたりします。
絵は、りんどうの花そのまま。
【る】
瑠璃沼に滝落ち来たり瑠璃となる 水原秋櫻子
(るりぬまに たきおちきたり るりとなる みずはらしゅうおうし)
《我流訳》蒼深き瑠璃沼へ白い滝がそそぎこむ。その白も沼にとけこみ、瑠璃色に染まる。
《感想》だから?といいたい気がする句ですが、滝に意識を合わせるとちょっと良く思えて来る。瑠璃沼という名前の沼は日本全国に複数あるかもしれませんねー。ここに詠まれた瑠璃沼は福島県北塩原村にある瑠璃沼。五色沼という名所で、いくつもの湖沼があり、湖沼ごとに色合いが違います。瑠璃色、赤、エメラルドグリーン。散策路から美しい風景が楽しめます。仙台辺りからだと一日ドライブの定番。
絵は青い沼へそそぎこむ小さな滝。
【れ】
連翹の一枝づつの花ざかり 星野立子
(れんぎょうの ひとえだずつの はなざかり ほしのたつこ)
《我流訳》レモン色に近いれんぎょうの花は、まっすぐな枝にびっしりと咲く。まるで一本の棒に見えるほど。一枝ごとに満開がある。華やかに咲く春の黄色。
《感想》落葉低木の花という意味では山吹と近い存在のれんぎょう。子どもの頃はこの句を思い出して山吹とれんぎょうの区別をつけていました。れんぎょうはみっしりと花がつくけど、やまぶきは一輪一輪バランスよくつくんですよね。「連翹」の漢字は読めるけど書けない。難しいですね。
春の色はといえばピンク、と連想しますが、黄色い花も多いです。水仙。福寿草。たんぽぽ。庭木や公園に植えられることの多いれんぎょうも目につきやすい花です。花びらが細長く、想像をたくましくすれば超ミニサイズのバナナの皮がくっついているように見える。
絵は、びっしりと花のついたれんぎょうの枝。そのまんま。
【ろ】
六月や峯に雲置くあらし山 松尾芭蕉
(ろくがつや みねにくもおく あらしやま まつおばしょう)
《我流訳》嵐山の背後に雲が立っている。緑が色濃い。夏だ。
《感想》これはさっぱりした(あついはじりじりと暑い)夏の風景を詠んでいる句ということで衆目は一致していると思うのですが、これを梅雨の時期のメランコリーな気分を詠んでいるという読みは存在しないんですかね?
古文の世界では旧暦が使われているので、今の季節感とずれていることが多い。そこからいくと、六月は盛夏なんでしょうか。六月を梅雨と読んで(必ずしも梅雨でなくてもいいが。しとしと降る雨)、峯に置く雲は暈を被ったような霧雲という読みは不可能だろうか。
絵は、緑濃い嵐山と入道雲。この形は嵐山!とわかるほど山の形に特徴がないと思うので、きっとこれは嵐山という推量。
<わ行、わゐゑを。そして京。
【わ】
我事と鯲のにげし根芹哉 内藤丈草
(わがことと どじょうのにげし ねぜりかな ないとうじょうそう)
《我流訳》水辺で芹を摘んでいたら、突然足もとで激しい水音がした。どじょうがはねたのだ。きっと自分が捕られるのだと思って慌てて逃げたに違いない。なんとなく可愛らしくて「お前のことは狙ってないよ」と心に呟く。
《感想》わたしは全然別の解釈をしていて、「どじょうが必死で逃げているのを芹が自分のことのように思って隠してやっている」という句だと思っていました。いずれにしても擬人化をした、メルヒェンな一句。
芹って美味しいですよね。せり鍋一択。せりと鶏肉ときのこ類だけで食べたいが、せりってけっこう高いので3束とか4束とかは一回の鍋に入れられない。
絵は、繊細に描かれた若ぜり。緑がきれいです。
【ゐ】
居待月芙蓉はすでに眠りけり 安住敦
(いまちづき ふようはすでに ねむりけり あずみあつし)
《我流訳》満月を過ぎて、月の出が遅くなった。夕方にはしぼんでしまう芙蓉の花はもうとっくに眠っている。
《感想》居待月というのは満月の三日後の月のこと。なかなか出て来ないので座って(=居て)月の出を待つという意味。
これは解釈によっては、芙蓉を花ではなく美人のたとえと見て、女性が恋人の訪れを待ちくたびれて寝てしまったという色っぽい意味にも取れる。
芙蓉と木槿の区別が今一つ自信ないのですが、どちらも好きな花です。
絵は、日本画っぽく描かれた芙蓉。どことなくくたっとして寝ている風情。
【ゑ】
越後屋にきぬさく音や衣更 宝井其角
(えちごやに きぬさくおとや ころもがえ たからいきかく)
《我流訳》衣更えが近い。夏の着物の準備をする呉服屋から、きぬを裂く小気味いい音が響いてくる。夏が来るのだなあ。
《感想》越後屋は呉服屋さん。今の三越の前身ですね。多くの解釈では着物を仕立てるために絹を裂く音が何度も聞こえる、という情景を詠んだ句とのことなのですが、個人的にはなんとなくしっくり来ないところです。「きぬ」が絹なのか衣なのか生地という意味なのか。たとえば夏に向けて調度一式を一新するためにきぬ=布を裂いているというのならすっきりするのですが。
着物を横に裂く時にいい音がするイメージが湧かない。横もハサミをちょっと入れればピーッと裂けるのか?しかし反物には耳が……
絵は、越後屋さんの暖簾。下に重りがある暖簾は太鼓暖簾というそうです。
【を】
をりとりてはらりとおもきすすきかな 飯田蛇笏
(おりとりて はらりとおもき すすきかな いいだだこつ)
《我流訳》薄を手折る。一本一本は頼りなさげな薄なのに、四本、五本と抱えるとはらりとした重みが腕にかかる。十五夜の夕暮れ、田んぼのあぜで薄を集めた腕の重みの記憶。
《感想》「はらり」という言葉選びが秀逸な一句。薄の重みはずっしりではなくはらりだろう。風が吹くとその抵抗で重みが一層増す。そのゆたゆたとした重力の変化は薄を抱えた人の記憶の中に。
絵は、薄。
【京】
京にても京なつかしやほととぎす 松尾芭蕉
(きょうにても きょうなつかしや ほととぎす まつおばしょう)
《我流訳》自分が今京都にいても、しみじみと京の都がしのばれるほととぎすの声だよ。
《感想》詠み人は京の郊外にいる人なのかなあと思っていました。ほととぎすと京都の風情とはよく似合います。現代の(芭蕉の生きていた時代の)京と、いにしえの(芭蕉より前の平安時代などの)京を重ね合わせ、古今で詠まれた・作られた短歌などにさまざま思いを致しての句かと。
時間的な(現代・いにしえ)京都の重ね合わせと、場所の重ね合わせもあるかもしれませんね。ほととぎすの名所はどこだったでしょうか。枕草子にもほととぎすの声を訪ねて賀茂の奥まで行く話があります。
絵は、いかにもほととぎすがいそうな緑の枝。
ラインナップ、【ら】~【京】まで。
今回の新知識は、「我事と鯲のにげし根芹哉」の解釈。慌てて逃げるどじょうの姿がユーモラスでかわいらしい。
一番好きな句は、
居待月芙蓉はすでに眠りけり 安住敦
でした。
水原秋櫻子監修、「俳句いろはかるた」。
以上、いろは四十八組のかるた。古今、数々名句はあるとはいえ、最初の文字をいろはで揃えるのは難しい。労作でした。
反面、そういう縛りなしに俳句のよくわかった編者が自分の好きな句を選んでかるたに出来たら、それはまた素敵なアンソロジーになるだろうなという気がします。その場合はやはり頭の一文字では足りなくて、最低二文字、二文字では形が取れないので上の句五文字ということになるのでしょうが。
だれか俳人が渾身のアンソロジーとしていろはかるたを編んでみてくれないものか。もちろん絵も質のいいものを。製作費と売り上げが引き合うのかはさだかではないが。
そして小林一茶の作がもしかして一つもないかもしれない。不思議です。
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