こういう時に長い本に挑戦するのもいいかもしれません。歴史小説で遠い過去に思いを馳せるのも。今まで読んだことのない方、塩野七生はいかがですか?
塩野七生はイタリアを舞台にした歴史小説をずーっと書いてきた小説家です。最初の著書が1969年出版だからおよそ50年。決して多作な作家ではないですが、なにしろ50年間のキャリアがありますから
著作はかなりの数にのぼります。塩野さんの著作でイタリアの歴史に馴染んだ方も多いと思います。
わたしが読んでいたのは前半期。なので、前半期の作品のなかから読む順番をおすすめしたいと思います。
まずは1冊目、「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」。
今でこそチェーザレ・ボルジアもマンガなどでメジャーになりましたが、日本でその種を蒔いたのは、間違いなく塩野さんだったと思います。
ただ塩野さんの蒔いたチェーザレの種はちょっとやりすぎた。あまりにもかっこよく書かれすぎていて、欧米での定説とは合わないらしい。欧米では悪魔並みに嫌われているそうですよ、チェーザレは。
チェーザレをかっこいいとする日本は異質だとか。
でも、なにしろ作者が好きになっちゃったんだから仕方がない。塩野さんは主人公のチェーザレを、美形で頭が良く、冷静であり行動力もある魅力的な人物として描いたから。
そこに悪魔的な魅力もあるんですから、ラノベ並みの最強主人公ですよね!わたしも塩野チェーザレにやられた一人です。やっぱりかっこいいじゃないですか。
「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」は塩野さんの第二作です。よく「デビュー作には作家の全てが詰まっている」といいますが、塩野さんの全てが詰まっているといえるこの本、最初に手に取る1冊として超おすすめです。
ただ気をつけて欲しいのが、これはあくまで小説だということ。塩野さんの小説は(例外はありますが)ほぼ台詞がない。淡々と語っていく叙述とあいまって歴史そのものと思われることが多いようです。
塩野さんは歴史に沿って書く作家ですが、作家の醍醐味は「見たいように見る」ですから、当然内容には塩野さんの強力なフィルターがかかっている。そのフィルターの存在を忘れないようにしてお読みください。
織田信長を例にとると。
織田信長を例にすると、ちょっとわかりやすいかも。織田信長について書かれたものは(他にもいろいろあるでしょうが)、
「信長公記」……信長に直接仕えた太田牛一によって書かれたドキュメンタリー。
(これが元々は「信長記」という名前だったからややこしい)
「信長記」……信長が死んで40年くらい経ってから、関係ない小瀬甫庵が作った物語。
の2つが代表的なもので、「記」の方は「公記」を下敷きにして書いてあります。が、織田信長関連の知識として現在流通しているものには「記」の内容がいくつかあり、史実とは離れているものもあるそうです。
塩野さんの作品は「記」ということをお忘れなく。
王道歴史コース2冊目、「神の代理人」。
塩野七生の1冊目が「チェーザレ」というのは鉄板。そこから次は好みの問題ですが、まずは「王道歴史コース」を進みましょう。
歴史上の人物としての「法王」。
「法王」(教皇)という存在もつかんでおきましょうか。西洋の歴史を読むのなら「法王とはいかなるものか」ということを知っておくと何かと便利。
タイトルの「神の代理人」はローマカトリック法王のこと。
この本を読めば法王についてたくさん書いてあります。が、塩野さんがここで書くのは歴史上の人物としての個別の法王たちなので、(シンボルとしての)「法王がいかなるものか」という部分はあまり
書いてないかもしれない。
閑話休題。ローマ法王とは何か。
じゃあ「ローマ法王とは何か」を知りたい時に読む本として、Amazonを眺めてみたが、あんまりなさそうなんですね、これが。ないわけはないだろうと思うのですが。歴史的・宗教的にローマ法王を概説する、そんな本は誰かが書いてなきゃおかしいのだが。
タイトルでは鈴木宣明「図説 ローマ教皇」などはその目的をもって書かれた本のはずなのですが、レビューを読むに文章が難解だそうだ。概説書の文章なのに、専門用語満載というのは困ります。
そうすると竹下節子の「ローマ法王」が手軽で良さそうだが――
わたしはこの人の他の著作でけっこう面白く読んだものもありますが、立場が「博識な一般人」のため、概説書として挙げるのは躊躇する部分があります。
概説書はやっぱり学者が良い気がするんですよねー。なぜなら学者って、基本的に「間違ったことは書いちゃいけない」という縛りがあるから。
まあそのせいであまり新しいことは言えなかったりするんだけれども。一度読んでしまうと定説以外でもニュアンスで記憶に残るので、最初に読むのは定説が安心です。「全部が正しくはないのかもしれない」と眉に唾を付けた上で竹下節子かなあ。
閑話休題、「法王」と「教皇」の訳語の問題。
……この「法王」という呼称もなかなか微妙で、現時点では「教皇」を使うのが望ましいようです。まあ訳語の問題なんですけど。これは原語では「papa」です。
昔々、バチカン市国へ日本大使館を設置した時、訳語として採用したのが「法王」。しかしその後、徐々に「教皇」への移行の流れになっており、日本カトリック中央協議会では「教皇」を使うように推奨。つい去年、外務省もそれまでの「法王」から「教皇」へと表記を変えました。
しかし塩野さんは「法王」表記を使用しています。どこだったかでこれについてエッセイを読んだような気がしないではないが、……ちょっと忘れた。まあ彼女が著作を書いた当時は「法王」の使用が多数派だったと思う。
そして塩野さんの著作で「法王」を覚えたわたしも「法王」の方がなじみがあり。「教皇」に切り替える踏ん切りがつきません。元々がギリシア語のPAPA(父)から来ているらしいので、それに「教皇」という訳語をあてると固すぎて違和感がある。
前ローマ法王、ベネディクト16世が危篤になった際には、聖ピエトロ大聖堂を中心に多くの人が集まり、夜を徹して回復の祈りを捧げているニュースが流れました。「カトリックの人にとって法王はやはり父なんだ」と納得しましたね。
王道歴史コース3冊目、「わが友マキアヴェッリ フィレンツェ存亡」
ヴェネツィアとフィレンツェ、どちらを先に読んでもいいのですが、若干ページ数が少ない(といっても文庫で600ページ超)フィレンツェの方を先に。
ニッコロ・マキャヴェッリはチェーザレと同時代のフィレンツェ共和国の官僚。外交官。それだけだったらそれほど有名になることもなかったかもしれないのですが、「君主論」を書いたことでこの人の名は現在まで残りました。
そしてこの「君主論」はチェーザレを3ヶ月、交渉相手として――つまり敵として――そばで見ていた経験から生み出されたものらしいです。
たとえていえば、ニューヨーク・ヤンキースの田中将大選手に長年付いて取材をしていた記者が、後年「優れた野球選手とはどういうものか」について書くようなもの。この「野球選手論」が名著だったためにその著者として名前が残っている。そういう状況。
この作品はマキャヴェッリについても書いていますが、より詳しくフィレンツェについて書いた本です。当時のフィレンツェは一つの共和国で(これは戦国時代の尾張や美濃が別々の国だったというのに似ている)近隣の国との外交交渉で苦労していました。
……この苦労した経験が、現代社会においてのヨーロッパの外交術に生きていると思うんですよねー。わたしは政治経済にはものすごーく疎い人間ですが、それでも日本が外交下手なのはわかります。
それは長年の鎖国によって外交センスが身についてないからではないかと。ヨーロッパは500年前、小国がひしめきあってああでもない、こうでもないと権謀術数をつくしていました。この経験の差は大きいんじゃないでしょうかねー。
外交官だったマキャヴェッリを描くことで当時のフィレンツェの動きも書くことが出来る。うってつけの人物でしょう。
もっとも塩野さんは「好きな男しか書かない」と公言している人ですから一番はマキャヴェッリ本人に魅力を感じたんでしょうね。タイトルの「わが友」は、わたしは最初誰にとっての友なのか疑問だったのですが、塩野さんにとっての「わが友」です。その共感を感じつつお読みください。
序盤で引用される――塩野さんによると「世界最も美しい手紙の一つ」である親友ヴェットーリ宛の手紙は、まさに「空間と時間を越える読書の醍醐味」を描いたものとして無類だと思います。
なお、マキャヴェッリの「君主論」は500年後の今でも手に入ります。
文庫本でも本文150ページくらいと短いので、目を通してみるのも一興。……面白いかというと、わたしはそんなに……
塩野さんが書いた「マキアヴェッリ語録」という本もあります。
マキャヴェッリの名言を集めて塩野さんのコメントをつけた本。これはまあ、塩野七生にビジネス書の延長を求める層が読めばいいのではないでしょうか。
ちなみにマキャヴェッリの表記はいろいろあって……
塩野さんは「マキアヴェッリ」を使います。わたしは書く時は「マキャヴェッリ」発音する時はだいたい「マキャベリ」。「マキャヴェリ」「マキャベリ」「マキァヴェリ」「マキァヴェッリ」と表記の揺れがすごい。
肖像画を見ると美形とはいえないが……ひょうきんな感じ?微妙に火野正平に似てる?
サンティ・ディ・ティート - Cropped and enhanced from a book cover found on Google Images.
4冊目、「海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年」上下
通常の歴史小説って基本的に人物を軸に書いてますよね。人物という足掛かりがないと、ちょっと読みにくい気がする。今、「海の都の物語」の文庫本を手に取り、めくってみたところがたまたまこんなことを書いたページでした。
「ヴェネツィアとフィレンツェは、性格のまるで違う二人の人間のようだ」と書いたのは、フィレンツェの人マキアヴェッリである。
(中略)私は、マキアヴェッリの言葉に示唆されて、ヴェネツィアという国家を、一個の人格として取りあつかうつもりでいる。(中略)これが、ヒーローの国であった、それがために個々のヒーローの伝記を書いて、それを連らねていけばまとまるフィレンツェの歴史に比べて、アンティ・ヒーローの国に徹したヴェネツィア共和国の歴史を書く、唯一の方法だと信ずるからである。
これは本のカミサマのお導きだ!と思った。上巻500ページ強の、たまたま開いたページにこんなことが書いてあるなんてなんという偶然であろうか。
そうなんです。ヴェネツィアは長いこと――ヨーロッパでは異例なほど長く続いた国。
それは塩野さんによれば「アンティ・ヒーローの国に徹した」からこその安定ということになります。
誰が舵をとってもうまくいく、有効な国のシステムを構築できた稀有な国。
なので、読み終わったあとでもヴェネツィアの歴史上の人物の名前は全く記憶に残りません(!)。有能な人はいたのだろうけれども(この本にもいろいろ名前は出て来るが)、基本的に英雄を生み出すためのシステムではなかった。英雄がいたとしても、その人が突出しないシステムを作ったのだろうと思います。
こういう地味な話を、塩野さんは文庫上下巻合わせて1100ページ強で書きます。これがすごいと思う。血沸き肉躍る英雄の話は面白く出来ますが、平坦な(に見える)話をこの長さで書く。それがちゃんと面白い。
この材料を揃えるまでに一体どれだけの蓄積を……
わたしが持っているのは中公文庫版で上下巻本ですが、今は新潮文庫で6巻で出ているらしいです。
5冊目。ゴールは(一旦)「ローマ人の物語」。
チェーザレ・ボルジア
ローマ法王
フィレンツェ
ヴェネツィア
と「塩野七海・王道歴史シリーズ」を歩いて来て、メインディッシュは「ローマ人の物語」です。塩野七生、畢生の超大作!集大成!
ローマ人の物語 (1) ― ローマは一日にして成らず(上) (新潮文庫)
……が、なんということでしょう!わたしはこの作品を読んでない。
最初は読んだんですけれどね。文庫で7巻目にして挫折した。何に挫折したかというと、買うのに挫折した。だって最終的には文庫で43冊出るんですよ!概算で約40センチの幅が必要。本棚のスペースがないじゃないですか!
これが単行本15巻のまま文庫でも出してくれたら買ったんですけどねえ……。文庫になるのを待ちかねていたんだから。1冊600ページになる本があったとしても多分30センチちょっとで済んだと思う。
たかが10センチ。されど10センチ。わたしは薄い本が嫌いだ。
文庫で買うのに挫折したあと「ローマ人の物語」は読むのをやめてしまったのでした。これは今後、単行本を図書館から借りて読みます……。
塩野七生「よりみち歴史コース」もあります。
基本的に塩野さんの作品は長いものが多いです。その分がっつり読めるので、こういう時の読書にはぴったりですね!わたしも積読本がなくなったら、久しぶりに再読しようと思いました。
今回はがっつりしっかりした作品を並べた「王道歴史コース」を辿る順番を書いてみました。次はもうちょっと気軽に読める「よりみち歴史コース」について書いてみますね!
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