ヒースという植物がある。ツツジ科の低木。高さは、30センチくらいから人の背丈を超えるものまで。白や淡いピンクの2、3ミリのコロコロした可愛い花をつけるものが多い。びっしりと咲きそろった時期は淡いピンクのじゅうたん。
ヒースには荒野という意味もある。イギリス北部やアイルランドの高地帯で、ゆるやかな丘陵と低い山が続く。もともと地形と植物は逆の話で、荒野がヒースだったからそこに咲く低木群がヒースと呼ばれるようになった。花の季節以外は茶色や渋い緑などで覆われた、色味の少ない荒涼たる土地。
ヒースクリフという人名もある。エミリー・ブロンテの書いた小説「嵐が丘」の登場人物。お金持ちの家に拾われた孤児のヒースクリフと、その家の娘キャサリンとの愛憎を根とした二つの家系の因縁。暗い情念の物語。
ヒースで思い出す出来事がある。苦笑を伴う記憶。
若い頃にイギリスを旅した。日程に余裕があったので、ハワースという土地まで足を伸ばした。ハワースはブリテン島のちょうど真ん中辺り、町からは遠い小さな村だ。周りをヒースの荒野が取り巻く。
この場所の売りは文学散歩とトレッキング。文学散歩は19世紀の小説家、ブロンテ三姉妹の縁の場所を訪ねる。シャーロット、エミリー、アンは何も起こらないようなこの静かな村で、それぞれ小説を書いた。シャーロットの「ジェイン・エア」、エミリーの「嵐が丘」はいまだに世界中で読まれ、何度も映画になっている。
トレッキングはヒースの荒野を歩く。日本の里山や低山とは趣の違う、命の気配のない淋しい丘陵地帯。「嵐が丘」の舞台はまさにこの荒野で、人里離れた二つのお屋敷での話だ。丘の頂上にはモデルとされた古い農家の跡があると聞いた。
「嵐が丘」は中学生の頃に読んだきりで、その年頃にこの小説は難しかった。情熱と憎悪、心をえぐるような後悔と絶望――そんな感情は中学生には理解できない。ひたすら陰鬱な小説として頭に残った。しかし高校生になってから読んだ「ジェイン・エア」の方は大好きな小説だ。「ジェイン・エア」にもヒースの荒野をさまようシーンがある。その雰囲気を訪ねて、行ってみよう。丘の頂上まで。
◇ ◇ ◇
歩き始めたのはお昼過ぎだった。ツーリスト・インフォメーションでもらった地図によると、丘の頂上まで行くコースはハワースの中心部から行って帰って約4時間。歩き始めるには少々遅いかと迷ったが、季節は夏で、暗くなるまで時間はたっぷりある。緯度が高いイギリスのこのあたりで日が沈むのは夜の九時頃なのだ。
牧草地の脇を、というより牧草地そのものを通るトレッキングコース。広すぎてどこを通ればいいかわからなくなるが、基本的には柵に沿って歩く、あるいは石垣を超えるゲート――人間は階段の上り下りで越えられるが羊は越えられない梯子状のもの――を目指して行けば大丈夫。
イギリスは陸が古く、日本ほど高低差がない。イギリス北部にある最高峰のベン・ネヴィス山でも標高は1344メートル。ハワースあたりの標高はそこよりはるかに低い。しかし山地の広がりはあり、ゆるやかに続く丘陵は少しずつ登っていく。鮮やかな緑ではなく、くすんだ緑が広がる寂しさのある風景。遠くに白い羊が点々と見える。かたわらにピンクの小さい花が咲く。雲の影が荒野を横切る。
コースの途中にはブロンテの橋、ブロンテの滝、ブロンテの椅子など姉妹にちなんだスポットがある。ただの滝や岩でも、ブロンテと名をつければゆかしいものに感じられる。風景のなかに嵐が丘の登場人物を置いてみる。子どもの頃のヒースクリフとキャサリンが無心に遊んだ場所。他に人はおらず辺りは静か。
頂上に着く。見下ろした風景もそれまで登ってきた風景とは特に変わることもなく、寂しく広々とした荒野。村は見えない。農家の跡には――羊がいた。まるで屋敷の主人のようにゆったりとした様子で屋根の落ちた壁の中で草を食んでいる。じっと見ているとこちらをいぶかしげに見返す。何か用か。そう言いたげに。
周囲の景色をひとわたり見た後は早々に降りることにする。ここに来るまで誰にも会わなかった。トレッキングの時刻としては遅い時間なのだろう。少し足を速めなければならない。
◇ ◇ ◇
そのわずかな焦りが良くなかったのか。それとも荒野の風景に気を取られていたのがいけなかったのか。ふと気づくと足もとの道が――なくなっていた。膝くらいの高さのヒースの灌木に囲まれ、わたしは道のない荒野にいつの間にか立ち尽くしていた。
しまった。戻ろう。しかし後ろを振り返っても自分が進んできたはずの道がない。昔話で、森に迷い込むと、背後で木がいつの間にか動いて退路をふさいでしまう描写がある。まさにそれを地で行く出来事。一体わたしはどこを通ってここまで来たのか。魔法で閉じこめられた気分。
さらにいえば地面の状態が悪かった。灌木が根で土をつかんでいる場所以外では雨で土が浸食されている。いたるところに深さ30センチの落とし穴がある状態。そして穴の底には雨水がたまっている。もし穴に落ちたら靴はぐちゃぐちゃだろうし、穴から穴へ渡ることも出来ない。ヒースを踏んで歩くことしか。そんなことをしたら自然破壊が……
――いかん。パニックになりそう。なりかけている。だってそばに誰もいないし、人里ははるか遠いし。暗くなるにはまだ時間があるけど、こんなところで道を見失ってどうすればいいのか。恐怖の側へ落ちそうになるのを意識しながら、踏みとどまって考える。まずい。まずい。パニックにならないための方法は。
こわいよー。こわいよー。こわいよー。
わたしは声に出して言った。呟くよりは大きく。叫ぶよりは小さく。群れからはぐれた狼が――狼ほどかっこいいものではないが――心細く遠吠えをしているところを思い浮かべてもらいたい。言葉が風に乗って飛んでいく。
恐怖を口に出したせいで心は少し、落ち着いた。まずは転んだりしないこと。ここで足でもくじいたら多分誰も通りかからず、人里まではたどり着けない。食べ物は持ってないけど飲み物はある。水分不足で動けなくなることはないだろう。道を見失っているとはいえ、周囲を全部見渡せる場所だからどちらに村があるかは間違えない。下って行けば道に出るだろう。つまり慌てさえしなければ、そんなに危機的状況ではないはず。
努めて冷静に、内心は全速力で逃げ出したい思いでゆっくりと進みだす。ヒースを踏みつけて歩くのは大変に気がとがめたが、それを避けると一歩も進めない。ごめん、ヒースたちよ。許しておくれ。
◇ ◇ ◇
――前方にハイキングコースの小道が見えて来た時はほっとして力が抜けそうだった。おそらく道を失っていた距離はせいぜい100メートル程度だが、道もない、穴だらけの野。どちらを目指すべきかわからない場所を歩いているのは本当に怖かった。しかし小道に出てしまえば平気。魔法の野を後にして、あとは村へ帰ればいいだけ。
しかし丘を一つ越えた、その時。また別の恐怖が待っていた。足がすくむ。「ひっ」と声が出そうになるのを必死に飲み込む。
女がたった一人で小道に立っていた。見渡す限り誰もいない、そんな場所に。何をしようとしているかわからない。景色を見ているわけでもなく――こちらをじっと見つめている。どう見ても待ち伏せである。怖い。
だが見つめ合ってずっと立ち尽くしているわけにもいかない。歩きだす。立っている女とわたしの距離は徐々に縮まる。近づいていくにつれ、怪しい様子のない人であることはわかった。だいぶ年配の、おそらく六十代くらいのご婦人である。
「飲み物が余ってるから飲まない?」会釈をしながら通り過ぎようとした時に、突然声をかけられた。差し出す手には紙パックのジュース。どういう状況なのか混乱した。人気のない場所でじっと立っていた女の人から差し出されたジュース。
ぎくしゃくしながら受け取ると、女の人はわたしと一緒に歩きだす。そこから呪縛が解けたように「普通の会話」になった。トレッキングコースでたまたま出会った人たちが交わす、ごく普通の会話のような。頂上まで行ったかとか日本から来たとかあたりさわりのない。
連れだって歩いて一山越えると、今度は男の人が一人で立っていた。わたしは再びぎくりとしたが、女の人が「夫よ」と紹介してくれる。わたしたちは三人連れになった。
ご夫婦はストーク・オン・トレント在住。家の近くには運河があって、夕暮れにはよく運河沿いを散歩するそう。トレッキングが好きで、ハワースにはよく来るという。旦那さんは昔、海軍だったそうで「日本人?昔、日本に行ったことがあるよ。クリ?クラ?そんな名前のところ」「クリ……?」「ヒロシーマの近くの」「ああ!呉!」。海兵というより海軍士官の制服が似合っただろうご主人と、昔の映画女優の雰囲気のある奥さん。
村に降りるまで一緒に歩いた。楽しく喋って、記念に写真だけ撮らせてもらってそのまま別れた。名前も聞かず。そして高揚した気分が収まった頃に振り返ると。
……聞こえてたんだろうなあ。きっと。わたしの狼の遠吠えが。
見える範囲に人はいなかったけれど、このご夫婦は丘を越えた意外に近いところを通っていたのかもしれない。わたしは日本語でこわいよーと言ったが、その心細い声の調子はきっとわかる。何だろう、と気にして待っていてくれたのではないか。
◇ ◇ ◇
それとともに、「いかにもイギリス人」だったアプローチを思い出し、今でも微笑が浮かぶ。普通なら「大丈夫?何か聞こえたけど」「どうかした?」――声のかけ方はこんなところだろう。しかし彼らはまさにイギリス人らしく、遠回しに声をかける。相手をきまり悪がらせないように、プライドを傷つけないように、とても遠くから。
「飲み物が余ってるんだけど、飲まない?」と。
荒野のただなかで飲み物を手に、遠吠えをする人を待つ女。ありがたくて可笑しい。可笑しくてありがたい。思い出すたび微苦笑が浮かぶ所以。思い出すのは奥さんの真っ赤なカーディガンとヒースの灰色の荒野。温かさの記憶。
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