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北村薫の「八月の六日間」という本を読んで、昔のことを思い出した。

若い頃に長野県へ行った。善光寺と松本を主目的に、その他に馬籠・妻籠、上高地、帰りに諏訪湖畔に泊まるコース。上高地へ行ったのは諏訪の前、松本の後だった。

だいぶ忙しい日程だったのを覚えている。当時のメモを見てみたところ、上高地には14:30に着いて、翌日の12:00発。着いた日に田代池・大正池方面を散策し、次の日の午前中に明神池までの散策。もう少し奥の徳沢まで行きたいのを、バスの時間を考えて断念した。

上高地は高原リゾートであるらしく、宿泊するには値段の高いホテルしかなかった。わたしはふだんビジネスホテルに泊まっており、予算は五千円から高くても八千円。二万もするようなリゾートホテルには泊まれない。でも上高地の散策を考えるとぜひ一泊はしたい。そんななかで、数少ない選択肢の一つが西糸屋山荘だった。

名前からして元々は山登りの拠点としての山小屋だったのだろう。普通の個室の他に四人部屋があって、そちらは低額で泊まらせてくれる。一泊7200円。しかし相部屋。見知らぬ人と同じ部屋はかなり抵抗がある。大分悩んだ。――結局、無い袖は振れない。金額をとって初の相部屋宿泊に挑戦することにした。

上高地に着いて大正池まで散策し、宿の部屋に入ると先客が一人いた。軽く挨拶した程度。普通の観光客のようで、積極的に話す雰囲気ではない。この程度の関わりで過ごせるなら相部屋でも気楽に過ごせるかもな、と思った。

だがその後に二人組が到着して状況がやや変わる。典型的な「山女」のいでたちで、この部屋に本来泊まるのはこういう人たちなのだろう。積極的に話しかけられてかすかにわずらわしさを感じる。知らない人とのお喋りも出来るけれども、どっちかというと放っといてくれる方がありがたい。

それでもそのお二人さんはとても朗らかで、話好きだけれども騒がしくも押しつけがましくもなく。和室の小さなテーブルを囲んだ四人でのおしゃべりはだんだん楽しくなっていった。

当時三十代の方だったろうか。山を縦走して降りて来たところで、久々の人里とのこと。山に詳しくないのであまりピンとは来なかったけど、たしか燕岳を含んだ三泊四日だったから本格的な登山なのだろう。三泊四日を山で過ごすというのに平地民のわたしは衝撃を受けて「すごい!登山家ですね」といったら、「いやいや、とんでもない」と照れていた。

山小屋ではたどり着いた人を断らないこと。だからその日の人数によっては、ぎちぎちに詰め込まれ、身動きも出来ない状態で寝なければならないこと。山ではお風呂にも入れないこと。山に縁がないわたしは知らないことばかりだった。興味深く聞いた。

と、山の話を一通り聞いたところで、自分たちだけ喋ってはと気遣ってくれたのだろう、「上高地へは何しに?」と訊かれた。
――何しに?いや、そう言われても……。景勝地へ観光に来ただけで、その他に特に何をするということもない。反射的にそう答えようとして。

その時、わたしではないもう一人の人が「絵を描きに来ました」と言った。絵が趣味らしい。色鉛筆とスケッチブックを持って来ているそうで、しばらく絵の話が続く。

その次はわたしの番。絵を描く人がいたことで、単に観光に来ただけの自分がとても薄っぺらく感じた。今から思えば堂々と「観光です」といえば良かっただけなのだけれど、なぜか打ちのめされたような気になった。もごもごと「いい景色だと聞いたし……写真を撮って、大正池とかその辺を歩いてみようと思って……」うろたえつつ言いよどんだわたしに、山女さんの一人が言った。

「そうか、写真を撮る人なんだね」
そう言われてなんだかとても嬉しかった。居場所を見つけてもらった気分。山登りの人。絵を描く人。写真を撮る人。――わたしは写真を撮る人になった。ジグソーパズルにカチッとはめてもらった一つの小さなピース。

翌朝、それぞれが宿を発つ。「いい写真を撮ってね」持っているカメラはいつものオートフォーカスのカメラ――当時はフィルムカメラしかない――だったけれど、その日は普段よりシャッターを切る時に気合が入った。だってわたしは写真を撮る人なんだから。

絵を描く人もどこかで絵を描いているだろう。山女さんたちは縦走を終えて、今は下界へ向かうバスか電車の中だろう。もう二度と会うことはない人たち。一夜の宿を共にした人たち。

河童橋から見上げる穂高岳。
林の中の鳥の声。
疲れて辿り着いた嘉門次小屋のホットミルクの美味しさ。
梓川の水はきらきらと輝くブルートパーズの青。

上高地の記憶。

 

 


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