いろいろ徒然

◎国語辞典からの招待状。「踏青」で2000字。

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国語辞典のページをランダムに開いて、最初の言葉を基に何か書く、というチャレンジを続けております。最初は言葉を得てから、パッと条件反射で書くことを目指してましたが、それにはほとんど意味がないことに気づいた。思いついたことをそのまま書いて、文章になるわけがないのだ。書いててもちっとも楽しくない。

なので、前々回あたりから条件反射で書くことは止めました。だが、じっくり考えても自分の中の引きだしは特に増えないし、検索しないで書くというルールを課しているので、書き始めまで何日もかけてもしょうがない。そんなに考え込まないで書き始めます。

お題そのものについて、と限定すると難しいのでそこから連想するものだったらOK。話題はどんどん変わります。目安としては2000字ですが、あまり無理をしないで、そこまで書けなくてもいいとする。

今回のお題をひいたところ、「踏青」となりました。

踏青:春の野に出て若草を踏み散歩すること。

 

「踏青」で2000字。

踏青。……は聞いたことがない……。

こういう雅語には比較的強い方だと思っていたんですが。漢文っぽいですね。中世以前の和歌ではあまり使われない感触。近現代の和歌、あるいは俳句で、もしかして使うのかもしれない。

言葉の説明を聞いて、この和歌を思い出しました。

君がため 春の野に出でて若菜摘む わが衣手に 雪はふりつつ

たしか作者は光孝天皇……?百人一首に入ってます。さっぱり記憶に自信がありませんが。雪が降っているくらいだから、春とはいってもまだ季節は早春。若菜は雪の間からほんの少しだけ顔を出した野草でしょう。

それに対して踏青となると、季節はだいぶ進んでいる気がします。もう寒さを感じずに野歩きが出来る頃。もし踏青という言葉を昔の人が使ったのであれば、彼らがいたのは京都近辺だったでしょうから、わたしがいるところとはだいぶ季節感が違うでしょうが、4月下旬以降という気がします。

わたしは踏青という言葉にタンポポが咲く季節を想う。が、もう少し早い時期かもしれませんね。緑が地面からほんのり顔を出すような季節。もう雪は降らない。硬くなっていた地面が陽光に温められてゆるんで来る頃。

わたしが小さい頃、家の周りはもう少し空き地が多く――道端の草花は身近なものでした。学校の行き帰りに気まぐれに花を摘みながら帰った。いや、それは大げさか。花を摘みながら帰ったのは嘘ではありませんが、実際は地味な花が多く、摘みがいがなかった。アカツメクサやハルジョオン程度では、花束になりようがないじゃありませんか。

春を告げるのはヒメオドリコソウやオオイヌノフグリ。通学路の空き地に、突然びっしりと生えそろっていてびっくりする。毎日ずっと同じ道を通って学校にいくはずなのに、ある日突然気づくのです。「もうこんなに咲いている」と。足音を潜めて近づいてきた春にふいに驚かされる。

今は、――空き地の大半にアパートが立ってしまいました。昔は道路がアスファルトでも、その脇には雑草が生えていたのに、今は道路脇までしっかり側溝が作られて雑草の出る幕がない。狭い歩道もアスファルト。植えられた小さな街路樹の根元がわずかに土の見える場所。

それでもまれに雑草が元気な場所もあって、丸々としたエノコログサなどに出会うことがある。うれしくなって、そのわさわさとした感触を楽しむ。わさわさとした感触とともに、小学生だった頃の通学路も思い出す。道端のエノコログサを引き抜いて、振り回しながら帰っていたこと。

クローバーを編むのも好きだった。長く編んで、それを捨てられずに家に持って帰ってしばらく飾っていた。最後はかさかさに乾いて捨てる他ないのですが、それまでは大事な戦利品でした。

 

 

「踏青」で思い出した詩句がもう一つあります。

灯を背けてはともに憐れむ深夜の月
花を踏んでは同じく惜しむ少年の春

これは出典が和漢朗詠集、ということは確かです。が、作者も、タイトルも、前後の詩句も覚えていない。2行で完結する形式はないと思うのだが……。元はこれは漢詩で、上に書いたのは書き下し文ですね。

この詩句を覚えたのは「あさきゆめみし」という源氏物語のマンガです。


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源氏と六条御息所が最初に心を通わせるところだと記憶している。細部は忘れましたが、源氏が「“灯を背けては……”といいますからね」というと、御息所が「“花を踏んでは同じく惜しむ少年の春”」と続ける。

ここには同じ知識を共有するものの心のゆるし方、心の距離のあり方が描かれています。同じ詩を知っていることが心の距離を近づける。それが恋となり、最終的には御息所の妄執となり、そのために夕顔や葵の上が命を落とすことになったと思えば、恐ろしい場面ではあるのですが、恋へと向かう第一歩をさりげなく描いている。

たとえばオタクが、誰も知らないはずのアニメの台詞を自分だけがわかる独り言として呟いたとして、それに誰かが台詞を続けてくれたら、すごくうれしくなると思う。コアであればあるほど、同じ作品を知っている人は少ない。「通じ合った」その喜びがあるはず。

この場面で描かれているのはそういうことだと思います。

――でも、わたしはこの詩句の意味、実はあんまりよくわからないんですよね。
一行目はいいと思うんですよ、「灯を暗くして一緒に深夜の月の風情を味わおう」で。「ともに」が普通に誰かと一緒にという意味なのか、何か漢語的な意味があるのか、そこは自信がないけど。

二行目がなあ……。うーん。思いもよらず花を踏んでしまって、心を痛めてしまう少年の繊細な心。……違うかなあ。「同じく」の意味がわからない。同時に?たちまち?

わたしはこの詩句、マンガを読んだ時から好きだったので、その後の人生で和漢朗詠集をさくっと読んだこともあるのですが、記憶はまったくない。そもそも和漢朗詠集って日本人による和歌と漢詩のアンソロジーでしたっけ?中国古典も入っているんでしたっけ。

 

あ!今思いつきましたが、これは昔の「声に出して読みたい日本語」ではないですか!何しろ朗詠だから。実際に声に出して読んで気持ちいい文章を集めたもののはず。

昔は(平安時代は)、声のいい人が朗々とした声で、あるいは小声で、その場にふさわしい詩歌を暗唱するのがめでたきこととされたようです。和漢朗詠集はそれのアンチョコといった意味もあったでしょう。

今でいえば、歌の上手い人がふと歌って周りの人を感心させるというような。歌のチョイスも大事だったりしますね。その時にふさわしい和歌を選ぶセンスも込みで、そういうのが上手い人は雅さを賞賛された。

――まあ実際にはどろどろとした権力闘争などもいくらもあったわけですが、建前としては雅であることが至上命題。あまりにも雅さを追求する社会も骨が折れるだろうけど、現代のように「あるべき姿」が見えない時代よりも、ある意味でシンプルだったのかなと思います。……雅さと経済力は切っても切れない関係にあるので、雅を最上級まで追求出来たのは、ほんの一握りの権力者だけだっただろうけど。

 

答え合わせ。

お題は「踏青」でした。知らない言葉。「青踏」なら、たしか平塚らいてふが主導して組織した、女性の社会進出を推進するための雑誌名ですよね。

知らない言葉に出会ったら、使わないと自分のものにならない。ふだん日本語では意識しませんが、実は英語でも同じなんですよね。試験勉強として、単語帳で意味とスペルを覚えても、実はそれは自分のものにはなっていなくて、自分で書いたり喋ったりして実地で覚えて行くもの。いろいろなシチュエーションで聞いていくうち、その言葉に含まれているニュアンスまで含めて、わかるようになる。

――そういう意味では「踏青」という言葉、永遠に自分のものにはならないだろうなあ。今後の人生で使う場面があるとは思えない。

そもそも踏青とはどう使うのか。

俳句で使われているようです。春の季語なんですね。元は中国で行われていた春の行事から来ていて、日本では行事としてではなく日常行なう野遊び、散歩なども含めるようです。

また、漢語をやまとことばに開いて「青き踏む」という言い方も俳句でよく使われるらしい。

踏青や 古き石階あるばかり

葛城の神臠(みそな)はせ青き踏む

どちらも高浜虚子の作です。わたしはさっぱり意味がとれず、前者は古い石段の、その神寂びた風情を、後者は……「みそなわせ」はご覧になってくださいかなあ。葛城の神というから、奈良の奥まったところに旅行に行った時の句だろうと想像しますが。「みそなわせ」と「青き踏む」がどう繋がっているのか、まったくわからない。

葛城神社の辺りを(とぼとぼと)散歩している自分の姿を神よ、見守ってください、とかそういう意味だろうか。

意味がさっぱりわからない俳句を読んで言葉の意味を掴もうとは、理論的に無理があるのですが、とにかく俳句で多く使われる言葉だというのは了解した。踏青・青き踏むはネット上で見られるだけでも数十の作例があるので、そこまでレアな季語ではない様子です。とはいえ、わたしの持っている「基本季語500選」(山本健吉)には載ってなかったけど。

 


【新品】基本季語五〇〇選 山本健吉/〔著〕

余談ですが、「もし無人島に持って行く本を何か1冊選ぶとしたらどれか」と訊かれたら、わたしはこの本と答えようと心に決めている。訊かれたことがないので答えたことはないが。

季語が500ある上に、それぞれについてのエッセイともいうべき説明と類語、そして使用句を季語1つにつき10句から20句挙げてあるスゴイ本。つまりこの1冊で1万句近い俳句が読めます。文章として読み終わっても、それぞれの俳句の鑑賞も出来る。これなら無人島でも退屈しないでしょう。文庫本とはいえ1000ページあるし。

「和漢朗詠集」は手元にあった……

そして「基本季語500選」の隣にあった本を見て手が止まった。持ってたか、和漢朗詠集!全然記憶になかった。しかししおりが本の半ばに挟まっているところをみると、半分まで読んで挫折したのだと思われる。


和漢朗詠集 (講談社学術文庫)

これが思ったよりもかなり分量のある本でしてねえ……。元々の本文だけならだいぶボリュームは減るだろうけど、わたしが持っている本は全訳注付きだから、その分厚くなる。700ページ近い本です。それでも1つ1つについての説明は物足りないほどあっさりしたものだけど。しかし、

灯を背けてはともに憐れむ深夜の月
花を踏んでは同じく惜しむ少年の春

を、ここから探し出すのは不可能だなあ……と思っていた。
そしたら、まえがきの中にそもそも引かれていました!唐の詩人、白楽天の「春夜」という漢詩だそうです。著者の川口久雄の紹介文を引きます。

白楽天の名句です。長安の都、かり住まいした華陽公主という内親王の邸で、友人と同居して、酒盛りでもしたときの詩。受験勉強をしていた青春の日の作。燭台の灯を壁の方にむけて夜更けの月を楽しもうではないか。花が散り敷く青草の上を踏んで遊ぼうよ、青春の灯はまたたく間に過ぎ去ろうものを。かれらは勉強もしましたが酒に愁いを罌粟、女たちとの思い出ものこしたのです。華陽公主の邸は玄奘三蔵の大慈恩寺にも遠くない桃の花の名所でした。

この本によれば、和漢朗詠集は、藤原公任という貴族が、娘が藤原道長の息子と結婚することになったため、婿への引き出物として作らせたということです。なんと雅なことかと思い、我が娘のためにと願う親心を見る反面、そこには権力者の道長への計算もあっただろうし、優雅さを武器にしていた当時の貴族たちの思惑も見えて興味深い。

白楽天「春中與盧四周諒華陽観同居」でした。

なお、このネット社会で白楽天と春夜がわかれば全文がすぐ出て来るだろうとたかをくくっていたのですが、これが出て来なかった。「春夜」は和漢朗詠集の部立てとしてのタイトル――というか、部立てのようですね。この詩自体のタイトルは、

「春中與盧四周諒華陽観同居」です。

……見ただけで目がすべるー。全然理解できないー。これは「春中、盧四周諒と華陽観に同居す」と読み、春のさなかに盧四周諒(という人。なんと人名。人名っぽくない)と華陽観(という宿舎)で(試験勉強のために)同居していた頃をテーマに読んだ詩だそうです。一応挙げておきますが、わたし自身は意味は全くわかりません。

性情懶慢好相親 門巷蕭條稱作鄰
背燭共憐深夜月 踏花同惜少年春
杏壇住僻雖宜病 芸閣官微不救貧
文行如君尚憔悴 不知霄漢待何人

あー、もっと目がすべるー。呪文みたいー。予備校の寮に暮らす浪人生が、自分と友人のことを詠んでいる詩。2行目がとても美しいので、公任もその部分だけを切り取って、和漢朗詠集に採録したようです。

平安貴族たちにとっては漢詩も大事な教養の一つだったので、白楽天の詩の一つや二つや三つや四つ、暗記もしていたでしょうが、現代人にはこんなに漢字が並んでいるとツライ。漢文は苦手でした。まあとりあえず前後があったことはわかったので満足。

 

今回、踏青という季語を覚えました。

いつまで記憶に残るか自信はありませんが(近年、記憶は全て外付けHDD=パソコンに全面委任している)、踏青という季語を覚えました。出来れば来年の春に青草を踏みながら「ああ、踏青だ」と思いたいものです。

使わなければ言葉は消える。絶滅危惧種のようなものですから。

 

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