【prose】

< 離陸 >他2編【prose】

更新日:

< 離陸 >【prose】

 

飛行機で飛び立つ時、わたしはいつでも少し切ない。もう一度大地に帰って来るのかどうか。生まれ育ったこの土地に帰って来るのかどうか。あるいは数日を過ごしたこの場所に、また来ることがあるかどうか。

窓の外を見る。白い管制塔が静かに立っている。離陸する機体は少しずつスピードを増して、管制塔が視野から外れる。地面から飛行機が浮いて「さよなら、地面」、しばらくの間。畑のパッチワークが大きく斜めに傾く。空へと向かう自分の体の傾きを風景で知る。

遠い土地へ運んでくれる翼よ。銀色の羽に夕陽をにぶく宿らせ。
羽ばたかない鳥よ。行先は遠い空、雲の先。

 

 

 

< 美術館にて >【prose】

 

じっと見ることは耳をすますことに似ている。見ようとするものに集中し、細部に目を遣る。うつくしいと思うところはどこか。線のうつくしさ、色のうつくしさ、形のうつくしさ。目はそれらを探して絵を隅々まで探索する。

一枚の絵がこちらを見つめている。聞こえないほどの小声で呟いている。近づきながら、離れながら、周波数を合わせるように距離をゆっくりと測る。いってんごめーとる。その絵が一番きれいに見える位置を。

白い雪がこんもり積もった石の塀。薄日が差して雪が光る。柵に止まった黒いかささぎが、一夜で白く変わった世界を面白そうに眺めている。そのかささぎは画家自身の似姿。雪に怖れと好奇心を半分ずつ抱く、初めて雪を見る若い鳥の姿。

昔、画家が私を描いた頃には――絵が語りだす。画家は貧しかった。妻と子は寒い部屋で震えていた。孤独と惨めさが胸を刺す。それでも大きな目で世界を見つめ続け、なんとか自分のものとして切り取ろうとする。目の前のキャンバスにさまざまな白を重ねる。そうやって、画家は私を描いたんだよ。

絵は懐かしむ声で過去を語る。語り終わった後は満足そうな丸い沈黙。
わたしは次の絵に足を向ける。別な物語を語ってくれる絵へと。

 

 

 

 

< 夜明けの空 >【prose】

 

淡いピンクの空はクレタ島の夜明け。ホテルのベランダからかろうじて見える海は何の色でもなく。夜明けはまだ海の時間ではない。夜明けは空の時間帯。

群青を残していた空がだんだん水色へと変化する。淡いピンクと淡い水色、二色が共存するクレタの空。太陽が出たのか、港の際に建てられた要塞の跡の白い石壁が黄色い光に照らされる。ああ、あそこには行ってみなければ。何百年か前の船乗りの足音が聴こえるかもしれない。

 

真昼になれば痛いような日差しも今はまだ野うさぎの優しさ。風が涼しい。
空のピンクはいつの間にか消えた。あとはただ真っ青な空。

つばめが軽やかに飛ぶのは古きクレタの王宮の壁。遠い昔の少年たちは焦点の定まらない視線を彼方へ向け続ける。百合と。柳と。イルカが躍るいにしえの壁画。迷宮と言われたこの広大な王宮をゆるやかに歩いた人々。その影たちが時代を重ねて行きかう。足音の残響がかすかに――

地上には、過去から遺された石の。
夏の日の白いまぶしさ。

 

-【prose】
-

Copyright© 旅と風と日々のブログ , 2022 All Rights Reserved Powered by STINGER.