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< 実方中将の墓 >【prose】

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名取市北西部に実方中将の墓といわれるものが残っている。里山の麓の小さな碑。前面に水田が広がるのどかな場所。竹林に囲まれひっそりと建っている。

藤原実方はおよそ千年前に生きた人で、陸奥守に任ぜられはるばる都から赴任して来た。左遷だったという。天皇の面前で、和歌のことで藤原行成という人物と口論になり、実方は激高して相手の冠を叩き落としてしまう。

当時の冠は非常に大事なもので、日常生活でも他人の前では決して脱ぐものではなかった。天皇はその無作法を怒り、「歌枕見てまいれ」と実方に申しつけ、陸奥守に任じたと。

本来ならば陸奥守という武張った地位にはあまり似合わない人だったと想像する。家柄が良く、和歌が上手く、容姿が美しく、色好みだったそうだから。清少納言と消息文のやりとりをし、仲が良かったらしい。百人一首にも歌が採られている。

 

かくとだに えやは伊吹のさしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを

 

藤原実方は赴任してから三年ほど経ったある日、阿古屋の松という名所に出かけた。帰り道に小さな社の前を、気づかずに下馬もせぬまま通りすぎた。土地の者が、この社は由緒だたしく霊験あらたかな神が祀られているのでちゃんと下馬してお参りをするよう申し上げたが、実方は社の神を侮りそのまま行こうとした。それに怒った社の神は実方を落馬させ、その時の負傷が元で実方は亡くなってしまう。土地の人々は憐れみ、近くに墓を作り供養した。

実方の死からおよそ二百年ほど過ぎて、その憐れさに心惹かれ、西行がこの地を訪れた。西行は元武士の僧侶で、和歌を作りながら山に籠ったり旅をしたりを繰り返した。西行は遠い同族である奥州藤原氏の平泉をその生涯に二度訪れている。二度の行き返りのうちのいずれかで、主要街道である奥大道から少し外れた、田野のなかの小さな墓に詣でる気になったのだろう。

 

朽ちもせぬその名ばかりを留めておきて枯野のすすきかたみにぞ見る

 

西行は都から遠いこの地で、あえなく命を落とした貴公子に思いを馳せ、歌を詠む。実方の和歌は西行の時代にも伝えられ、和歌に力を注いだ西行には親しいものだっただろう。その歌を詠んだ人がここに眠る。墓の傍らに生えた薄が偲ぶよすが。

そして西行がこの歌を詠んでからおよそ五百年、今度は西行を慕う芭蕉がこの墓を目指す。弟子の曾良と二人。フィクションであるおくのほそ道では真実はわからないが、日暮れて道遠く、実方の墓にはたどり着けなかったらしい。

 

笠島はいづこさ月のぬかり道

 

「さ」がひらがなで書いてあるので句の意味がわかりにくいが「さ月」は「五月」。笠島は実方の墓がある場所の地名。五月雨で歩きにくい道をとぼとぼ歩きながら、笠島はどこかとさまよう心細い二人組。はるかにあの辺、と場所はわかっているのに足は疲れ、日は落ちかけ、行こうとした場所へ辿りつけない悔しさ。

芭蕉が通って100年ののち、正岡子規が実方中将の墓へ詣でる。すでに結核を発症していた子規が、岩沼で汽車を降り仙台へ。岩沼駅が今の場所と同じなら実方中将の墓までは8キロあまり、そこから仙台まで12キロちょっと。東北本線が通ったばかりで、それ以外のところは徒歩が基本。病中の身でよく歩く。

 

旅衣ひとへに我を護りたまへ

 

死んだ人の御魂に自らの旅の無事を祈る。……余談だが、この句には季語がないのではないだろうか。ひとへを単衣とかけて夏の季語でなければ。

実方の足跡を踏んで西行が、西行の跡を慕って芭蕉が、芭蕉の影を追って子規が。それぞれがそれぞれの思いをもって、小さな淋しい墓を見つめる。

◇   ◇   ◇

普段それほど電車に乗る機会はなかったが、東北本線に乗って館腰駅を通ることがあれば、西の方向に注目をしていた。小学生の頃の話。電車からよく見える丘のてっぺんの、堂々たる「雷 神 山 古 墳」という看板が気になっていたから。

これほど大きな看板なら古墳も立派なものだろう。いつか見てみたい。――だが電車から降りると古墳のことなどすっかり忘れてしまい、訪れることなく何年も経った。

高校生になって雷神山古墳をふと思い出す。電車に乗って行ってみよう。近隣ならば一人でどこへでも行けるようになっていた。古墳は館腰駅からすぐで、とはいえ高低差があるので古墳まで登っていくのは少々体力が必要だったが、登って行った山の上で見事な古墳に出会う。

雷神山古墳を堪能し、しかしそのまま帰るのはどうも物足りないと考えた。駅前でちらっと見た地図のなかに道祖神社と実方中将の墓があったはず。行ってみようか。そこまで。

古墳から降りて来て、最初に出会った人は畑をしていたおじいさん。「実方中将のお墓はどの方向ですか」と尋ねたが返事は返ってこない。無言でじーっとこちらを見ている。聞こえなかったのかと思い、もう一度繰り返してもやはり黙ったまま。諦めて頭を下げてそこから離れようとして、ようやく聞こえて来る返事。
「歩く距離じゃない」。

おじいさんはどう考えても遠すぎる距離に行こうとしているわたしに困惑して何と言おうか迷っていたらしい。だいたいの距離を問うと「さあ……5キロや6キロはあるべなあ」。そのくらいなら。歩こうと思えば歩ける距離だ。高校の強歩大会は30キロを歩く。

ひとまず方向を指してもらって歩き始める。行けなきゃ行けないでいいし、行けたら儲けもの。スマホがあって地図が入っている時代ではない。時々は道行く人に道を訊く。場違いな場所を歩いているせいか「歩いてきたんですか」と訊かれることもあった。館腰駅から、と答えると「ずいぶん遠くから」と驚かれる。

おそらく2時間近くかけて、道祖神社までたどり着いた。最短距離ではなかったと思う。住宅地を通る道はわかりにくく、南側へ大きく膨らむ道を通ったはずだから。道祖神社から実方の墓までは遠くないはず。あの山の麓あたりだろうが――そろそろ疲れた。田んぼの中をつっきっていく道へ踏み出す気がしない。道祖神社へ詣でた後、北の田んぼを見はるかし、東へ伸びる道路を長い間見比べて迷い。結局目的地を諦めて、東の道路を行ってバスで帰ることにした。実方中将の墓にはたどり着けなかった。でもまたいつでも来られる。

それからしばらくののち「おくのほそ道」を読んだ。芭蕉も同じように墓にたどり着けずに引き返したと知って、自分が歩いた時のことを思い出した。芭蕉も同じように近くまで行きながら引き返している。三百年の時間を超えた微笑。

◇   ◇   ◇

実際に実方中将の墓を訪れたのはさらに数年経ってからだった。この時はもう免許も取得済みで車で乗りつける。おそらくは農家の敷地の、いかにも私有地という雰囲気の小道をおどおどしながら入っていくと、竹林を背後に小さな墓が西行と芭蕉の碑を従えて立っている。

ようやく来たよ、と心に呟きつつ墓を見つめる。不慮の死を遂げた実方を憐れんで建てられた墓。それが何百年も守られて人を招いている不思議。

墓を建てた村の人も、ずっと守って来た家の人も、折に触れて手を合わせ供物を捧げた人も、遠くから墓を訪ねて来た人も。流れた時間の中で、ここを詣でた人々の姿が入れ替わり立ち替わり目に浮かぶ。細い糸をこの小さな石組みが繋いでいるのを感じる。里山の麓にうずくまる、すぐに忘れられてしまいそうな。風雨にさらされ無くなってしまいそうな石組みだからこそ、その繋がりが心深い。

もう行くよ、と声をかける。――土地の神を侮る高慢な青年の霊はとっくに都へ帰っているかもしれないが。みちのくで死んだ実方が都へ戻って雀になり、御所の台所にある飯を食べ尽くしてしまったという伊達男らしからぬ伝説さえあるのだし。

 

中将は雀となりて遊びけり

 

実方雀はまたここへ舞い戻って、この辺りの竹やぶで鳴いているかもしれない。

 

 

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