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< ヴェネツィアの、遠い島 >【prose】

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その島へ行くのには本島から船で五十分かかる。途中のブラーノ島で乗り換え。ブラーノ島へ行く人は多いが、そこから船で五分のトルチェッロ島まで足を伸ばす人は少ない。

小さな船から降りたのはわたしを含めて四人。降りたあと、他の人はあっという間にどこかに行ってしまう。船着き場で辺りを見回しているのはわたしだけになってしまった。少し心細くなって後ろを振り向くと、降りた船はもう岸から離れるところ。

――静かだ。
誰もいないような島の。誰もいない道を歩いて行く。見えるのは運河沿いの木立と野原だけ。小さく平らな島には道が一本しかない。運河沿いに伸びる小さな道しか。運河は波も立たずひっそりと流れる。ヴェネツィア本島の賑やかな運河とは違う、ここにしかない静かな冬の運河。

気づくと道の先を老人が歩いていた。湧いて出たように突然見えた姿に内心うろたえる。後ろから見た服装が少しだらしない。人通りのない道で出会いたいと思う相手ではなかった。

老人のよろよろとした足取りと、旅行者のせわしい足運び。距離は少しずつ縮まっていく。あからさまに避けるのも心苦しいが、しかし触らぬ神に祟りなし……。すると突然老人が立ち止まる。立ち止まって、手に持ったビニール袋の中身をどさどさと道の脇に捨て始める。不穏な世界。わたしは様子を窺った。急に追いかけられるようなことがあったらすぐに逃げられるように。

だがその緊張は一瞬でほぐれる。老人が投げ捨てたのは汚らしい生ごみ――と見えるが、その大半は魚のあらだった。ある意味ではまぎれもなく生ごみだが、ある動物たちにとっては――

猫だ。たくさん猫が集まって来る。

老人は集まってきた猫を顧みることもなくそのまま歩いて行く。わたしは彼の後姿を見送り、餌を食べ始めた猫たちをしばらく眺める。六、七匹もいただろうか。真っ黒、黒と白、茶トラ、灰色猫。彼らは無心にがつがつと食べる。いかにも野良猫らしくこちらには愛想の欠片も見せない。天から降ってきた餌に夢中なのだ。

老人はただ猫に餌をやり。
猫はそれを当然の顔をして享受する。
そのことが天然自然である。それが島の生活である。
そう思わせるような、静かな島の風景。

その昔、トルチェッロ島は二万人の人口を擁した。本島よりも長い歴史を持ち、ヴェネツィアで最初に開けた島だったそうだ。立派な教会が二つもあり、黄金色の見事なモザイクが出迎えてくれる。夏にはこの教会を目当てに、あるいは人里離れた島のバカンスを目当てに観光客が訪れる。ホテルが三軒もありそのうち一軒は四つ星という、島にはそぐわぬ豪勢さ。しかし夏は一瞬で、それが過ぎればまた元の静寂が戻る。島の人口は二十人足らずだという。猫の数とどちらが多いか。

帰りの船から振り返ると島は驚くほど薄い土地だった。ほんのわずか高い波が来たら島が全部沈んでしまいそうなほど。ああ、教会の鐘楼が灰色の影になって見える。まるで海に直接建っているようだ。また来ることがあるだろうか。その時はあの鐘楼にも登ってみなければ。島を全景見渡すことが出来るだろう。

トルチェッロ島の旅の話。

 

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